2011年12月24日土曜日

にんげんをかえせ                  生存のための道標

 有原 誠治 映画監督
 昨年(2011年)、ドキュメンタリーの制作に携わりました。作品は「原爆症認定集団訴訟の記録 にんげんをかえせ」(80分、製作委員会)。長年に渡ってカメラを回し続け、雨の日も風の日もたたかう被爆者たちを記録したのは、被爆者を祖父に持つ青年、磯部元樹君。今を生きる人々に、一刻も早く送り届けたいとの思いで演出と編集を担当しました。
「次世代のために」「私たちの政府であって欲しい」「お金ではありません」「人生をそっくり返して欲しい」。この作品は、被爆者たちの魂の叫びに満ちています。アメリカの核戦略に追随し、放射線による内部被曝を無視する政府の不正義に、敢然と立ち上がった全国306名の老いた被爆者たちの命を賭けたたたかいは見事に勝利し続け、核・放射線に汚染された大地で生きねばならない人々の生存のための道標をつくりあげました。しかし、その存在を知らない人々が多数です。
今年は、この上映活動からスタートします。

今、思うこと。

  劇団俳優座 阿部百合子
 東日本大震災及び原発事故は、私にとって終戦前夜、日本で最後のB29の爆撃を受け、焼け出された光景と重った。どちらも人災である。この事故は世界を震撼させた。人それぞれの人生感が変えられた想いである。
 若者は言う、どうして戦争を止(と)められなかったかと。そう!どうして原発を止められなかったのか?気付くと、こんなにも沢山の原発が出来ていた。今、家を失い、職を失い、折角作った食の安全を奪われ、途方もなく未来が見えにくくなっている。
 国民の一人ひとりが、自分の力で、なぜこうなったかを真剣に考え始めた。
 こんな時だからこそ、私たち劇団の発信が求められていると痛感する。
 2012年5月、俳優座は「ヒメハル〜ヒメジョオン・ハルジオン〜」と題して2050年を想定した舞台劇を上演する。少子化で人口が9000万を割った日本の小都市を舞台に孤独な老人と引きこもりの中年男の交流を描く作品に出演が決まっているが、実際の2050年がどうなっているかは今生きている私たちの責任である。未来を決定するのは小さくても一人ひとりの力が集まることにあると今、思っている

幸せになるための懇話の会を拡げましょう

真言宗僧侶 岸田正博

大阪の知事・市長選挙は、閉塞感の強い情況から生まれた「維新」という「革新」の勝利です。かつての明治維新はそれまでの文化を否定・破壊する「文化大革命」でもありました。そこにはひとりひとりが幸せになれる世の中という基礎はありませんでした。
 「今の世の中どうにかしなくちゃ」、でもそれはオマカセだけでは良くならない。わたしがこの世の主人公だということを忘れちゃならない。 自分を見失わずに本当に幸せになろう。 これがこの世を極楽浄土に近づける原動力。変革のエネルギ―。だから、そのかたちとして①みんなの暮らしが豊かになるためには、②憲法が生かされ、③戦争をしない非核(原発)・非同盟・中立の日本として世界のみんなとつながるようにしよう。
 幸せな世の中、これは単なる政治革新によってもたらされるのではなく、人間らしさの原点の開花によって成就されることではないでしょうか。幸せになるための懇話の会を拡げましょう。  岸田正博(ショウハク)

われも背を立つ

           顧問 中村美智子
 家族探す涙の頬に降りかかる氷雨は
   被災の地を凍み閉じこめる
 三食を食い安閑と眠るわがせめて
   募金の額を惜しまじ
 泰山木の大輪の花天に咲けり
  「原発NO」の署名にわれも背を立つ
 枇杷も胡桃も鈴なり実るわが団地
    「原発NO」の署名に歩く
 放射能は人を選ばずと言うときに
  拒みいし人も署名に傾く
原爆を断つと生ききし六十五年
                      この一途さをひそかに恃む
                    シクラメンの花は寒気をひきしめて
                      咲き冴ゆるなり新しき年

脱原発の社会をめざして

府中革新懇 事務局長 田部 章

3月11日の夜から、巨大津波に呑みこまれていく東北の人と町、原発の爆発と放射能から逃れる福島の人々の映像。祖母の形見となったトランペットを吹き号泣した女子高生や外で遊べない福島の子どもたち、故郷を追われて転々移動する人たち。復旧復興や安全を言う政府や学者への不信が積み重なる。「国難」のときTPPに参加するとは・・・放射能測定や除染の要求に応えようとしないしない自治体の姿勢に怒りの声が出る。脱原発の社会をめざして具体的要求で攻めていく。「東日本大震災;恐ろしくて 哀しくて 声をあげて泣いて 生きていこう」

息子一家が被災 本気で世直しを!

       世話人 武藤幸子
 12年前、息子が浪江に転勤した時から、ずっと心に引っかかっていた「原発事故」が3月12日現実のものになってしまった。ようやく連絡が取れた息子一家に「とにかく早く遠くに逃げなさい」と。避難所を転々とし、ガソリンがようやく手に入り八王子のわが家に。しかし、中三の孫は、「福島が大好き、友達と一緒にいたい」と転校した学校には、2日しか行けずに、1ヶ月後には福島に。放射能の影響を心配して呼びよせた私は、被災した孫たちの思いを推し量ることができずに悩んだ。子どもたちへどのような影響を及ぼすのかとても心配。9月にお墓参りに故郷福島に。たわわに実った黄金色の稲、色鮮やかに咲いたコスモス、いつもと変わらない様に悲しみと怒りが。世の中を、社会を少しでも変えたいと私なりに歩んできたが、力不足を実感。今多くの人が何かをしなければと行動を始めている。原発を安全と嘯いてきた為政者を包囲して本気で世直しをしよう。

2011年12月20日火曜日

引間博愛さんを偲ぶ           労働運動の右翼的再編に体を張って挑む              中村美智子(元新日本婦人の会都本部会長、東京革新懇顧問)


引間博愛さんの突然の訃報(一二月三日)に息をのんだ。「しんぶん赤旗」に掲載された経歴は十七行・百七十字・異例に長い。私はその一字一行に見入り紙面を閉じることができなかった。
 この十七行にこめられた引間さんの経歴は、戦後日本の労働運動の縮図のように私の胸に重く響いた。
 襲いくる反共攻撃幾たびぞ挫折なけれは確信の湧く(歌集「秩父讃歌」より)
 日本の労働運動の右翼的再編の渦に抗い、体を張って挑み、時代に叶った組織づくりの最前線に立たれた。年金者組合の産みの親でもある。
 私もいろいろな場面で御一緒し写真まで横並びしたのがある。しかし、その引間さんが歌人であることを知ったのは、一九九十年代後半、私が「新日本歌人」に入会してからのこと。もっと驚いたのは「私の戸籍は秩父でね」である。東京革新懇の会議で隣席の時は、秩父の誰れそれのこと、秩父事件のことで話が弾んだ。
 生まれしは北海道にて本籍は秩父なりけりいづれも誇る(歌集「秩父讃歌」より)
 生活要求と世直し・自由・自治を柱に闘った父祖の血脈と自分の生き様を重ね「誇る」と詠われた引間さん。たけだけしいもの言いをしない、いつも「沈着で温和」な引間さん。私の隣席に座られることはもうない。
困民党の蜂起の歴史相共に継ぎきし君といま別れゆく 合掌
(経歴)
12月3日、心不全のため逝去。享年91歳。
1920年3月、北海道夕張市生まれ。1946年、神田運送で労組結成、支部書記長になる。1950年11月、レッドパージで神田運送を解雇されるが、52年6月に撤回される。1954年10月、全国自動車運輸労働組合委員長に就任、その後、全日本運輸一般労働組合委員長、統一労組懇常任代表委員として労働組合運動の階級的民主的強化、全労連の結成に尽力。1989年9月、全日本年金者組合を創立し、初代委員長。全労連顧問、全国革新懇代表世話人などを歴任。東京革新懇の結成(1981年2月3日)よびかけ人32氏の一人で、代表世話人を長く務め、2010年から顧問。
新日本歌人協会会員。歌集『明日の陽』『秩父讃歌』など

2011年11月15日火曜日

町長先頭に新しいまちづくりを始めた伊豆大島で政治革新のロマンを語る ”観光の町づくり 島づくり”      川島理史大島町長が挨拶   東京革新懇宿泊学習交流会

東京革新懇は11月5、6日日、「新しい町づくりを始めた伊豆大島で政治革新のロマンを語ろう」と宿泊交流集会を開催しました。
 
 観光のまちづくりについて、湯河原革新懇の高山正義事務局長が記念講演。
 「まちづくりには、保守も革新もない」との考えで、湯河原駅前の「明店街」活性化対策草案を発表し、いろいろな方に届けたら大きな反響を呼び、町議会議長や副議長、さらに老舗の旅館社長でもある湯河原温泉まちづくり協議会会長と懇談することができたこと、東日本大震災直後に、町長に、「湯河原町のホテル・旅館・民宿を避難先として利用できるように特別措置を」などの申し入れを行ったこと、また、町の後援を得て「地震津波勉強会」を行ったら173人の参加があり大きく成功させることができたと、話しました。(上写真は高山湯河原革新懇事務局長)
 


川島理史大島町長が挨拶し、「町民が主役」の島づくりに向けて粘り強く取り組んでいることを力強く述べました。また、「町民の会」の磯山仲雄会長は、川島町長誕生のドラマと継続・発展させる決意を語り、参加者に感動を与えました。(左は川島町長)
      (川島理史大島町長と参加者。岡田港で)

2011年11月9日水曜日

子どもから虐待を守るために   ―児童虐待の背景にある貧困―  

「貧困と格差のない社会をめざして」④

弁護士 
平湯 真人
(子ども虐待防止センター理事長、「なくそう!子どもの貧困」全国ネットワーク共同代表)

 都教組、東京地評などが参加する「子どもを貧困と格差から守る連絡会議」は9月15日に、子どもの虐待防止に取り組んでいる平湯真人弁護士を講師に招き、学習会を行いました。その内容を紹介します。

○誰を罰するかよりも
虐待は特殊な親や家庭の問題ではありません。虐待事件は誰を罰するかよりも、そもそもの防止が大事で、この立場で子ども虐待防止センターの活動を行っています。
児童相談所に情報が寄せられても、民法の親権条項で取り組みが制約されてきました。最近、民法の改正があり、児童虐待を防ぐため親権の一時停止ができるようになりましたが、親の懲戒権は制限付きで残りました。

○児童虐待をめぐる状況
平成12年に児童虐待防止法ができ、児童相談所への市民からの通告が奨励され、立ち入り調査が認められるようになりました。子どもを虐待から守る官民の取り組みの中で、通告件数は急増し年間5万余にのぼり、児童虐待による死亡は49人(47事例)と報告(平成21年度)されています。そのうちゼロ歳児が20人(40.8%)と一番多く、0~5歳児が約9割(43人)を占めています。

○虐待の背景は
 貧困など社会的環境の背景についての把握が弱かったのではないでしょうか。ゼロ歳児が多いということは、生まれた時から拒否されていたと言えます。虐待が行われた家庭の状況(資料)を見ると、経済的貧困と孤立が大きな要因として絡んでいることが明らかです。虐待を防止するためには、貧困と社会的孤立を重視する必要があります。

○背景と虐待行為を繋ぐもの
しかし、経済的背景があったとしても、なぜ虐待行動をやってしまうのか、その理由はわかりにくいのが実態です。昔、家庭は生産・消費の場で、働かないことに対する体罰がありました。家庭の役割が変化しましたが、今は裕福でも将来の貧困不安を解消するために、子どもの高学歴をのぞみ、勉強を強要するケースも増えています。しつけが動機であったとしても、子どもが言うことを聞かないからと、親の支配欲求と絡んで体罰がエスカレートする傾向があります。

○学校と地域の役割~監視でなく家庭支援を
都の児童相談所のほかに、区市町村などの自治体で、子ども家庭支援センターが設置されています。地域では、虐待の怪我を探すような監視ではなく、困っている家庭の支援が求められています。
そして、「学校に福祉の発想を」の期待が高まっています。「個人情報の保護」があるから、家庭のことに口を出してはいけない、との誤解が若い先生を中心に広まっています。これでは学校の役割が先細ってしまします。今度の震災で、父子家庭だった子どもが津波で父親を亡くし、校長が、離婚した母親を探し出し、ようやく子どもと繋げることができたケースを聞きました。
先生の研修会の参加が少ないのが残念です。都教委「虐待防止のパンフレット」を作成しましたが、できれば時間をかけて研修してほしい。何よりも大事なことは、知識よりも感性の問題、顔を腫らした子どもに何が起きているか推察できる「感性」を先生に磨いてもらいたいと、願っています。

虐待が行われた家庭の状況
家庭の状況         合わせて見られる他の状況上位3つ
    状況  件数 割合(%)  ①      ②        ③
ひとり親家庭 460 31.8  経済的困難   孤立      就労の不安定
経済的困難  446 30.8  ひとり親家庭   孤立      就労の不安定
孤  立     341 23.6 経済的困難  ひとり親家庭  就労の不安定
夫婦間不和  295 20.4  経済的困難   孤立      育児疲れ
育児疲れ    261 18.0  経済的困難   ひとり親家庭  孤立
(文責;編集部)

2011年11月3日木曜日

「混ぜる」ことに可能性 松本哉さんが講演

東京革新懇は9月10日、世話人会・代表者会議を開催しました。その記念講演として、インターネットで原発ゼロのデモを成功させたことで有名な松本哉氏が『どう共同を広げるか、私の経験』と題して講演しました。

 高円寺で、シャッター通の店舗を安く借りて、古物商「素人の乱」を6~7年前からやっている。
 原発の爆発が起こり、「この世の終わりか」ただ事ではないと思ったのに、事故が沈静化しないうちから、政府・マスコミがうやむやにしようとしていることにヤバイと感じた。そこで仲間10人と居酒屋で話し合い、ネット上で4月10日のデモを呼びかけた。反響が大きく、2~3千人の予想を上回る1万5千人が高円寺に集まった。「事前登録は必要?」「火炎瓶は?」などの問い合わせもあり、9割はデモ初参加と思われる。その後も、渋谷、新宿、東電前とデモを続けている。
 若者たちのデモの印象は「ハチマキ、ゼッケン、シュプレヒコール」、まじめで大きな団体の言うことを聞くのではと感じている。若者の政治意識が低いのではなく、表現の場がないだけ。気安く参加できて、文句(要求)が言えるように、デモのやり方は、音楽、パフォーマンスなどいろんな形式を工夫している。毎回、何があるのか、何が起きるのか、参加者が楽しくワクワクするように考えている。こんなものでしょうという「予定調和」ではなく、いつもと違う、こんなことができたと思える行動を心がけている。
 このようなことができるのは、普段から、野外イベントなどの経験があるからで、インターネットで宣伝しただけで、大勢が集まったわけではない。日常的・直接的なコミュニティが大事で、商売や街づくりでのつながりの人脈が役立っている。いろんなジャンルの人が「混ぜる」ことで新たな可能性が生まれる。原発問題でも、敵は強大で、財・政・官・学など予定調和の塊である。この構造を破壊するには正しい(言動)だけではなく、強力なネットワークが必要である。力のある人、意識の高い人だけではない「ゴジャマゼ感」が大切で、よくわからなくても集まる、集まるうちにわかる。腐りきった世の中を変えるために、敵が「もう参りました」というまで頑張りたい。(文責、編集部)

2011年9月6日火曜日

松浦総三さんを偲ぶ 


松浦総三さん(東京革新懇・顧問)
 8月6日、結腸がんのため死去。享年96歳。
1914年、山梨県生れ。1939年、渋沢栄一伝記資料編纂所入所。1946年、改造社入社。1965年、改造社解散により退社。以後フリーのジャーナリストとして評論活動に入り、東京空襲を記録する会代表、全国革新懇代表世話人、「東京都平和祈念館(仮称)」建設をすすめる会代表世話人など務めました。
 1981年11月に開催されたシンポ『どうなっている?東京の地震対策』(主催;東京懇話会)において、今日にも教訓となる、次のような発言をされました。「関東大震災も、東京大空襲も人災である」「地震そのものの恐ろしさもあるが、流言飛語、デマがりょう原の火のごとく広がったことだ」「私が一番恐れるのは、そういう地震というチャンスを利用した憲法改悪や反動化だ。この点からいっても地震による“人災”を防ぐのは革新統一、革新政治が必要だと思う」。

2011年8月4日木曜日

須山利夫さんを偲ぶ 


 5月28日に逝去。享年76歳。1935年東京大田区生まれ。1962年、27歳で大田区の生活と健康を守る会の専従として全
生連運動に参加、76年から全生連の全国理事、80年から都生連事務局長と全国常任理事に、04年から都生連会長と全生連副会長。東京革新懇代表世話人、革新都政をつくる会代表世話人などを勤める。

生涯現役で貧乏をなくす運動を続ける
東京都生活と健康を守る会(都生連)事務局長 秦 一也
須山さんは、27歳で「生活と健康を守る」運動に参加され、会員の目線で運動を進めることや班での活動を強調され、全生連運動の基本である「会員主人公」の活動を広めるために尽力されてきました。
 また、一人ひとりから集める「私の要求」運動の中で「明るい景色が見たい」という要求を取り上げ、白内障・眼内レンズの保険適用を実現させました。南京虫退治の活動、革新都政建設、都営住宅の名義人承継問題などの自治体闘争を広げる上で、大きな指導力を果たされました。生活保護の老齢加算削減に対しては、都生連史上初めての裁判闘争に踏み出し、最低生活費を引き下げられては暮らしを守れない、と奮闘されました。
また全国・東京革新懇が主催した懇談会「小泉『構造改革』で何が起きているか」(06年4月)において、弱者いじめの「改革」を告発するなど、民主運動で幅広く活躍されました。
  昨年九月の全生連全国大会で、中学校の先生が「修学旅行にいけない人は手を上げて」と言われて自分を含めて数人が手を上げたこと、そのことが「貧乏はいやだなあ」と腹の底から思われ「貧乏なくそう」という人生観の出発だと話され、大きな感銘を与えました。焼酎とトンカツがお好きで、会議が終わってからの食事の時には、焼酎を飲みながら運動の話をされていたことを思い出します。
須山さん、あなたが目指された「貧乏のない社会」をつくるために、私たちは運動を続けてまいります。安らかにお眠りください。

2011年7月27日水曜日

山田洋次監督,「寅さん」や「学校」の
映画シーンを観ながら語る!
”人間をいとしく思える社会を”
  7/10 東京革新懇人間講座20夜 日本教育会館 
「人間講座」20夜の企画・実行には、二一人の若者と二十年来の講座運営委員で実行委員会を結成し、約一年論議を重ね準備、当日も全て実行委員の手で運営しました。「集い」の模様を、精神障害を乗り越えながら実行委員会皆勤賞の岩垂、高松ご夫妻にご投稿いただきました。
              岩垂 麻菜美、高松智明
 「くそ暑い日」に、僕は笑い、そして・・泣いた。七百五十人が爆笑し、涙を流すなんて、一昔や二昔前の映画館でなければ味わえない、現代においては、とても稀有な経験をしたように思った。
山田洋次監督が登壇。冒頭「くそ暑い日に、ようこそ」の挨拶に会場はドッと笑った。監督は、自ら編集した「寅次郎相合傘/望郷篇/寅次郎サラダ記念日/寅次郎物語」や「たそがれ清兵衛」「学校」などのシーンを上映しながら、寅さんの心の疎外感や、人間は自分の生き方を決めるうえで学問が必要、そして幸福になるために勉強するのだというお話をされた。参加者全員が、何のために勉強し、人間は何のために生きているのか、そして人間の絆とはなんなのだろうか、一生懸命考えるという機会になった。
オープニングは、「男はつらいよ」の主題歌を。ピアノ・岩崎結さん、バイオリン・早川愛美さん、ギター・金井隆之さんの伴奏で、バリトン歌手・鈴木健之さんとソプラノ・水野安菜さんが舞台袖から登場。また、被災者に思いを馳せ「ビリーブ」を演奏。最後の「見上げてごらん夜の星を」の時、照明係りの橋本光陽さんが会場をパッと明るくすると大きく盛り上がり、舞台と客席の大合唱となった。
 司会者の若いフレッシュな遊佐なつ美さんと横塚栄子さんが浴衣姿で登場し、中山浩彰実行委員長を紹介。中山さんは、「「人間講座」は、豊かな人間性と自立心を養うもので、多彩な方々にご登場いただき一味違った内容で取組んできた」と開会挨拶。人間に対し、深い愛情を持って、時としてそれを阻むものと情熱をかけて闘う。なるほど「人間講座」とは、人間を愛する気持ちを深めるものなのだと、感じた。
 また、若者五人が壇上に登場し、監督に一人一言質問をした。印刷労働者の仁平雄さん、青年運動のリーダー岩崎明日香さん、精神障害者の僕・高松、ピアニストの岩崎結さん、ライターで在日韓国人の金真己さん。金さんの「満男を中心にした寅さんシリースをぜひつくって欲しい」との発言に、会場は大きく沸いた。印刷労働者の仁平さんに対し、山田監督は、「印刷工場とは文化の発信地だ」と励ました。対談の後、監督と握手をしたとき、僕・高松にだけは、片手だけでなく両手で握手をして、「体を大事にしてくださいね」と一言声をかけてくれた。トークの最後に、私・岩垂より監督に花束を贈った。
 閉会の挨拶に立った東京革新懇代表世話人の三上満さんは、不慣れな司会者二人に温かい労いの言葉をかけ、会場と舞台が一つになって笑い涙したことを述べ幕を閉じた。
 この「人間講座」を通じて、人間が人間をいとおしく思えるように、社会を変えていきたい。革新懇の掲げる旗の下、人を温かく思いやれる気持ちを持てる人間になれるようにと、つくづく感じた一日でした。

2011年4月11日月曜日

準備が進む 東京革新懇結成30周年企画 人間講座(第20夜)

 
  ※画像をクリックすると、読みやすくいプリントできるファイルが開きます。

今崎暁巳さんを偲ぶ

「絆を結んで一緒に人生を創っていこうよ」
-人間讃歌・共生の呼びかけに満ちたルポ作品を残して

六二年、大好評のテレビ『判決シリーズの』シナリオ作家の一人としてデビューするが、「偏向番組」攻撃のなかで番組は四年間で中止に。その後ルポライターの活動に。驚くほどの単行本とエッセーを残して昨年一二月一五日旅立っていきました。
 いま無縁、絶縁社会とかが語られています。これは人間の絆、共生にかえて、他者、友人をも競争相手としてのみとらえていく「人間関係」「社会」が産み出した産物。彼の作品は全く逆に、家庭でも地域でも、すべての作品が人間の絆で結ばれた共生に取り組む事実のルポです。人間讃歌に満ちて「人とひとの絆を結んで、ご一緒に人生を創っていこうよ・・」と全作品で呼びかけています。
 今崎さんは、東京革新懇の世話人として、長く活動されました。「東京革新懇ニュース」(八五年九月号)の『いま想うこと』欄に、「人間無視の日本航空の体質」と題して寄稿しています。また、九四年五月に東京革新懇が開催した『住まいは人権の視点でー公的住宅を考える』シンポにパネリストとして参加、「団地住民の心、ふるさととしての団地、公団建て替え問題など住民が主人公としての住民運動の前進などルポ作家としての目を通してリアルに報告」したとあります。
今崎さんに「貴方の人間・人生をこめたメッセージが私たちの人生に生き続けリレーされていきますよ」と報告したい。
        (柳沢明朗;元労働旬報社社長、大学院で同じ研究科)

(略歴・主な作品)1930年7月9日生まれ。54年早大文学部仏文専攻終了。同大学院法学研究科労働法へ入学、六0年終了、ルポ作家。
 東京革新懇世話人、東京憲法会議代表幹事、日本民主主義文学会幹事、下町人間・天狗講九条の会世話人、上野の森に「廣島・長崎の灯」を永遠に灯す会常任理事等の役員を歴任。
 『友よ 未来をうたえー日本フィルファーモニー物語』、『ドキュメント日本航空』、『いのちの讃歌』、など32冊の単行本と72点のエッセーを刊行。

『インターネットと社会変革』 有原 誠治

チュニジア、エジプト「革命」における、ツイッター、フェイスブックなどの役割が注目されています。3月14日の代表世話人会で、有原誠治さん(アニメーション映画監督)が、『インターネットと社会変革』と題して「話題提供」を行いました。
有原代表世話人はパワーポンターを使って、インターネットが軍事目的から開発された歴史など基礎知識から解説しました。そして、「ネットでの社会変革の可能性」について、日本の支配者はテレビを中心とした情報戦略を推進しており、これに抗して、人をつなぐ道具としてITを目的意識的に使い、メッセージを発信し交流する手段として活用することが課題であると強調、「共同の力でネット放送をはじめよう」「テレビに子守りをさせないキャンペーン作戦を」と呼びかけました。

2011年1月2日日曜日

「東京の地酒」 立川市 佐藤 榮祐

 酒は灘だ伏見だ、いや米どころ新潟だ、などとよく言われるが、冷蔵の技術や輸送の手段の乏しかった時代ならともかくも、昨今においては地域の差はさほどない。大事なことはどういう酒を造るのかが、酒造りに対する蔵元の考え方である。

東京には十の酒造場がある。唯一23区内(北区岩渕町)に残る小山酒造場、府中の野口酒造場、東村山市の豊島酒造場、八王子市の小澤酒造場と中島酒造場、福生市の田村酒造場と石川酒造場、あきる野市の中村酒造場と野崎酒造場、青梅市の小澤酒造場である。これら東京の酒造りの特徴は、すべて小規模生産でありオリジナリティに富んでいることだ。日本酒(純米酒)はもともと大量生産の出来る様なものではない。一人の杜氏が責任もって造れる量は、頑張ってもせいぜい2千石程度と言われている。しかし大手酒造メーカーでは、例えば白鶴は34万石、月桂冠は32万石、松竹梅が24万石、以下、大関、日本盛、黄桜等々大量の出荷データ(2,004年、日本経済新聞社)が並ぶ。こうなるともう蔵と呼ぶにはふさわしくない、アル添清酒(蒸留したアルコールを加えた酒)の大量製造工場である。その点東京の酒造りは、大半が4百石から千石の小規模生産だ。単に造りが少なければよい酒というものではないが、造りの全工程に杜氏の目が行き届き、責任をもって管理できるという点ではよい条件を有しており、東京の蔵元はそれぞれ創造的に酒造りに励んでいる。なかでも私は、あきる野市野崎酒造場の「喜正」を東京の地酒の筆頭に挙げたい。「喜正」は、蔵正面の戸倉城山より湧き出る伏流水を仕込水として用い、頑なまでに昔ながらの酒造法を守っており、今でも甑(こしき)で米を蒸かしている。さらに驚いたことに蔵人は3人だとのこと。わけても銘米の誉れ高い「山田錦」を50%まで磨いた「喜正」の純米吟醸酒は実に旨い。ほのかな吟醸香と飲みこんだ時に時に鼻腔に感じる清々しさ、味は雑味がなく風格さえ感じる。毎日でも飲みたくなる酒である。しかし残念ながらこの酒はあまりにも少量生産のため、蔵でしか入手出来ない。豊島酒造が出している「屋の守」(おくのかみ)という純米吟醸酒も旨い酒だがこれも少量生産のため購入できるのは多摩市の小山酒店だけである。さらに極め付きは、多摩産の純米吟醸酒「原峰のいずみ」だ。これは、多摩市の小山酒店の三代目、小山喜八さんが地元の農家と心を一つに3年かけて完成させた地酒である。田植えも稲刈りも参加者を募って行い、造りは福生市の石川酒造場に依託している、まさに地酒中の地酒である。あまり知られていないが、東京にはよい地酒があるのだ。