2023年9月1日金曜日

 都丸哲也さんを偲ぶ


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年後輩として 西東京市革新懇 森 武郎 

 

都丸哲也さんがなくなった。

都丸さんは戦争中、南方方面軍に編入され、北ボルネオに派遣、現地で敗戦を迎えられた。幸いにご無事で翌年、帰国。 

戦後、社会党に入党。旧保谷町議、市議を経て、1977年、革新統一の保谷市長に就任された。416年に及んだ都丸さんの市政運営の基本理念は、憲法を市政に貫く、住民自治を根つかせる。そして 非核・平和の思想を普及するの2点だった。そこから、全国初の特養ホームの個室化などのきめ細かな福祉・医療施策や、市民参加を貫いた公民館活動や、憲法擁護・非核都市宣言の採択など、数多くの先進的な施策が生まれた。 

退任後は全国、東京、三多摩、西東京地域の各段階を通じて、革新懇、原水協、9条の会などの世話人、代表世話人として幅広く活動されてきた。なかでも熱心に取り組まれてきたのが市民の憲法学習であった。杉原泰雄先生を講師として、ひばりが丘教会の講堂をお借りして、2014年から2年にわたって実施した西東京・憲法学ぶ会もその一つ。憲法の危機を救うのは主権者たる国民・市民がその地位にあることを理解し自覚する以外にない。市民の憲法学習が都丸さんの信念だった。「戦前」が取りざたされる今こそ、遺志を受け継がなければという思いを新たにしている。 

都丸さんご苦労さまでした。安らかにお休みください。 


都丸哲也さんの略歴

19214月生まれ。群馬県渋川市出身

学習院大学文学部卒業

1977年 革新統一の保谷市長 1993年まで4

19977月以後  東京革新懇常任世話人  東京革新懇代表世話人

         全国革新懇世話人

         東京原水協代表理事

200810月    九条の会東京連絡会代表

2013年から東京革新懇顧問

2023813日逝去102


2022年12月13日火曜日

畑田重夫さんを偲ぶ

 畑田重夫さんを偲ぶ

              野本春吉(大田革新懇事務局長) 

 戦前・戦中・戦後を生きた、尊敬された畑田重夫先生が十一月二十二に、九九歳で永眠されました。

二年間の軍隊生活、短い高級官僚、国立大学で教職、ラジオニュースの解説者(藤原弘達氏)、二度の東京都知事選挙の候補者など体験しました。  

畑田先生は、一九六〇年全国各地での安保条約に反対する学習会の講師活動から、安保、憲法、沖縄、反核・平和、統一戦線運動と二〇二一年秋まで講師活動を続け、学習活動に一生をささげた人です。

お話は、政治情勢を深く分析、誰でもわかるようにやさしくわかりやすく、たたかう展望を示し、参加者を引き付け感動を与えるものでした。民青大田主催の「七夕の集い」で講演、畑田先生の話を聞いた青年達、四八名がその日、一日で民青同盟に加盟しました。私は、その日の事を今でもよく覚えています。

畑田先生は、学者として、一人の人間として、どんな人にも、分け隔てなく接して、誠実に向き合う人でした。そんな先生の魅力にひかれました。

「私は、畑田先生の話を聞いて変わった」の声は今日でもよく耳にします。多くの人たちに大きな影響を与えた教育者でありました。

先生は、たたかう仲間に支えられ、最高の人生を送ることができたと思います。

長い間、ご指導ありがとうございました。安らかにお眠りください。

 戦前・戦中・戦後を生きた、尊敬された畑田重夫先生が十一月二十二に、九九歳で永眠されました。

二年間の軍隊生活、短い高級官僚、国立大学で教職、ラジオニュースの解説者(藤原弘達氏)、二度の東京都知事選挙の候補者など体験しました。  

畑田先生は、一九六〇年全国各地での安保条約に反対する学習会の講師活動から、安保、憲法、沖縄、反核・平和、統一戦線運動と二〇二一年秋まで講師活動を続け、学習活動に一生をささげた人です。

お話は、政治情勢を深く分析、誰でもわかるようにやさしくわかりやすく、たたかう展望を示し、参加者を引き付け感動を与えるものでした。民青大田主催の「七夕の集い」で講演、畑田先生の話を聞いた青年達、四八名がその日、一日で民青同盟に加盟しました。私は、その日の事を今でもよく覚えています。

畑田先生は、学者として、一人の人間として、どんな人にも、分け隔てなく接して、誠実に向き合う人でした。そんな先生の魅力にひかれました。

「私は、畑田先生の話を聞いて変わった」の声は今日でもよく耳にします。多くの人たちに大きな影響を与えた教育者でありました。

先生は、たたかう仲間に支えられ、最高の人生を送ることができたと思います。

長い間、ご指導ありがとうございました。安らかにお眠りください。


畑田重夫さん(東京革新懇顧問)の経歴

全国革新懇・日本平和委員会・革新都政をつくる会顧問

1923年京都府生まれ

東京帝国大学在学中に学徒出陣

戦後、旧内務省を経て、名古屋大学助教授を務めた後、労働者教育協会会長や勤通大学長など学習運動に尽力

原水禁世界大会実行委員会議長団や日本平和委員会代表理事など長年にわたり反核平和運動の発展に尽力

1987年と1991年に東京都知事選に立候補

「わが憲法70年」「どうみる新しい内外情勢」など著書多数

2022年12月6日火曜日

長谷川邦夫さんを偲ぶ

 長谷川邦夫さんを偲ぶ

               平田 誓(東京平和委員会常任理事)  


8月11日、東京原水協代表理事、東京平和委員会代表理事の長谷川邦夫さんが亡くなりました。

 長谷川邦夫さんは、広島の親戚が被爆により小頭症で生まれた事などから豊島区で核兵器廃絶の運動を練馬の亡き兄と共に長年にわたり中心的に活動してきました。平和行進では毎年子連れで参加されていたそうです。このような経験を基に東京原水協、東京平和委員会で新任の事務局などを指導し、大きな役割を担ってきました。

 私たちは、長谷川邦夫さんの「核兵器廃絶・戦争をふたたび繰り返さない」との思いを引継ぎ、核兵器禁止条約の批准を要求し世界の平和の推進役として日本政府が変わるよう運動を進めていきます。 長谷川邦夫さん、私たちの前途を見守っていてください。

2022年5月31日火曜日

 早乙女勝元さん安らかに 


柴田桂馬「東京都平和祈念館(仮称)建設をすすめる会」世話人

 5月10日、早乙女勝元さんが逝去されました。

早乙女さんは少年時代、東京足立区で空襲を体験されたとのことですが、1970年6月下旬の頃、家永三郎先生と話合う機会があって、その際、教科書に東京空襲にかかわる記述をして欲しいとの進言をしたところ、先生が「資料らしいものがほとんどない」と言われたことがきっかけになって、東京大空襲を記録する会を発足させ、「東京大空襲・戦災誌」発行の取り組みを進めたということです。

1979年の都知事選挙に当たっては、12人の各界の著名な文化人とともに候補者に「空襲・戦災資料館」建設の公開要請書を送り、この選挙で都知事となった鈴木俊一氏から肯定的な回答を得るなどの成果を上げました。

こうした活動が「戦争の惨禍を繰り返すな」の世論をひろげ、1990年7月には東京都が平和の日条例を公布・施行、「平和記念館」建設への具体的な一歩を踏み出し、1995年3月10日の東京都平和の日記念式典で「東京都民平和アピール」を採択するなどという画期的な時期をつくりだす礎石となってきました。

ところがかつて日本の政府と軍部がすすめた侵略戦争を肯定・美化する一部の都議の策動で平和記念館建設が1998年以降「凍結」状態とさればかりか、石原都政になってから、東京都は早乙女さんに、「東京大空襲・戦災誌」の編集・発行の過程で全国から寄せられた貴重な資料について、保管料の支払いを要求してくるという、全く理不尽極まりない暴挙にでてきました。

このとき早乙女さんは、「こうした石原都政を許せない。私は私財を投入してでも、資料を寄せてくれた人びとの思いを活かすために民立・民営の資料館を建設します」と怒りに煮えくりかえる胸の内を私に話してくれました。

しかしながら早乙女さんの思いは都立の平和記念館の建設であり、その意味で「道半ば」という状況であったわけです。

私は、この思いを受け継いでいっそう「戦争の惨禍を再び繰り返さないことを誓う」東京都平和記念館建設にむけて都民の皆さんとともに歩をすすめていきます。

早乙女さん、ぜひ私たちの前途を見守っていてください。

早乙女 勝元さん(東京革新懇世話人)略歴

1932326東京都生まれ

194539深夜から310未明にかけて東京大空襲を体験

1952に「下町の故郷」で直木賞候補

1970に「東京空襲を記録する会」を結成

1971 日本ジャーナリスト会議奨励賞(「東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録」)

1975 菊池寛賞・日本ジャーナリスト会議奨励賞(東京空襲を記録する会「東京大空襲・戦災誌」)

1992 15日本アカデミー賞特別賞(『戦争と青春』で企画賞)

2002東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長就任。2019退任、名誉館長

著書多数

2022510日逝去90歳。 

2019年10月30日水曜日

共闘の新しい時代と革新懇の役割
      乾 友行全国革新懇事務室長

928日の東京革新懇学習交流会での乾友行さんの発言を紹介します。

野党政策の発展と要求運動との結合 
今、私が大事と考えていることを話します。
 市民連合を介して野党が13項目の共通政策をつくった。大きな意義のある発展だ。くらし、平和、民主主義での新しい姿を示している。第3項目は膨張する防衛予算について、憲法9条の理念に照らして国民生活の観点から他の政策の財源に振り向けること。軍事費削って福祉、くらし、教育に回せという私達のスローガンを想起させるこの見地が、いまや野党全体が合意している。参院選後、れいわと共産党がと党首会談で合意した政権構想、政策合意の基本は13項目と確認。政権合意の土台になる政策を確認出来るようになってきた。13項目は、農業問題、年金問題、日韓問題とか入っていず、拡充が求められる。革新懇が掲げる3つの共同目標、ここに接近してゆくトレンド、方向を13項目に見て取ることが出来るのではないかと私は考えている。
 政党合意で13項目つくったが、背後には市民運動がある。象徴的なのは、金曜日の官邸前反原発集会。去年の秋からスローガンで、原発ゼロ政権誕生を掲げている。核兵器の問題でも、17年の都議選直後の86日広島で安倍首相が被爆者代表と懇談、被爆者は怒りに体を震わせ「日本政府が核兵器禁止条約に賛成しないとは許せない。都議選を見なさい。自民党が負けた。今度は国政選挙でそれをやるよ」と面と向かって言った。参院選、沖縄で当選した高良さんのビラには「建白書を実現する新しい政府をつくろう」となっている。これまでは大衆運動は要求の実現だけだったのが、それを実現する政府をつくろうとなってきている。この発展が、13項目あるいは新しい政府をつくろうという時の基盤になってきている。故に、3つの共同目標をもって国民が主人公の政府をつくることを目的とした革新懇が果たすべき役割はいよいよ大きくなってきている。

地方政治の問題 
市民と野党の共闘は、戦争法反対など国政の課題で、地方での共闘は出来なかった。地方政治では、オール与党で共産党を除く政治がずっと続いてきた。国政の課題での共闘とオール与党の地方政治、それが60年代、70年代の革新運動とは大きな違いだった。地方政治が変わらずに国政だけで野党連合政府できるわけがない。地方、地域で3000万署名をはじめとする大衆運動の中での共闘の積み重ね、発展、3度の国政選挙での共同の追求の中で共闘を深めてきた。そのことによりオール与党体制がひび割れてきている。埼玉、岩手知事選で勝ち、この秋、高知県知事選でも市民と野党の共闘でやろうということで動きが有り、来年2月の京都市長選挙も市民と野党の共闘やろうとの動きになっている。新潟の県議選では、1人区2人区で統一候補を立てた。高知では、高知アクションが県議選で16人推薦し、県民の会5人、共産党5人当選している。東京でも各地で首長選が共闘でたたかわれている。
 首都東京で、都知事選で市民と野党の共闘が発展し勝利することは決定的な意味を持っている。東京が変われば日本が変わるとよく言われるが、地方政治を変えてゆくだけでなく、国政を変えていく上でオール与党の政治がネックになっている。それを取り払わなければ、しっかりした野党連合政権は出来ない。つくっていくカギが、東京でオール与党体制を打ち破り新しい都政をつくることだ。そういう位置づけも含めて東京の革新懇に頑張っていただきたい。

革新懇をつくる意義 
今度の総選挙は、市民と野党の共闘の勝利、野党連合政権を掲げてたたかう。すべての小選挙区に市民連合をつくることを全国革新懇は強調している。参議院選後の佐賀市民連合では、候補者決定が決定的に遅かったから負けた。相手は強固な後援会組織、地域組織を持っており、県段階で共闘できたが地域レベルでの共闘できなかったと総括している。佐賀革新懇では、すべての地域に市民連合をつくるといっても誰がつくり、支えるのかという議論になり、選挙で勝つためには地域に革新懇をつくるとの議論を進めている。
 野党連立政権をつくることが現実の課題になってきているが、選挙で勝つこと自体大事業だから、それを支える革新懇が大事だし、市民と野党の共闘をつくらなければならない。選挙で勝つために要求闘争、13項目をはじめとする大衆運動、3000万署名など取り組んでいくこが必要だが、野党連合政権が出来て実際の政治をやってみると、財界本位、アメリカべったりという2つのゆがみにぶつかるのは明かだ。その時に、そことたたかい、なおかつ国民が主人公の政府、民主連合政府をつくる展望を持ったときに、その推進を地域から支える地域の統一戦線をつくることは戦略的課題だ。目の前の課題のために革新懇をつくるだけじゃなくて、もっと遠い、私達の本来の目標から見て地域にどれだけの政治的統一戦線が必要なのかということを腹に据えて革新懇をつくることを考えなければいけない。
 二つ目に、革新懇があろうがなかろうが、その地域の労働組合、新婦人、民商、民医連、共産党などが、全国どこでも参院選でも地域の共闘を支えている。忙しいから革新懇をつくるのに手が回らないという実状もある。しかし、革新懇をつくる「余裕」はない、という方も、野党の共闘を支えているのは自覚的民主勢力と共産党だというと、みんなそうだとなる。不可欠な役割を果たしている。革新懇は、自覚的勢力や共産党が、市民と野党の共闘、統一戦線運動を発展させるために、より効率的に、より組織的に、継続的に力を合わせる組織だ。だから、余計な仕事をやるんじゃなくて、自覚的勢力がやっていることを効率的組織的系統的にやるのが革新懇であり、それは不可欠の組織だ。是非、革新懇の再建、結成を進めて欲しい。(文責・東京革新懇)


2019年10月4日金曜日

国民が主人公の世の中、国民が主人公の政治、国民が主人公の日本の実現をめざす革新懇運動
 全労連や新婦人、民医連、農民連、全商連、民主青年同盟などの運動を、より組織的に継続的に効率的に力を合わせる組織が革新懇である。けっしてよけいなもの、荷物になるもの、わずらわしいものではない。東京の各市区に革新懇をつくり、共同を広げて、市民と野党の共闘で政治を変えていきましょう。
 今、市民と野党の共闘がすすみ、全国の各地で市民連合の結成が行われ、今度の衆議院選で自公勢力を打ち負かそうと、動きを強めている。
 この動きをいっそう強めて、安倍政権に代わる政権を実現しましょう。先の参院選では市民連合と5野党・会派が13項目の「政策合意」を結びました。これを土台に各地の小選挙区で市民と野党が地域の独自の政策を加味した素晴らしい政策合意ができるよう力を合わせましょう。

























































2018年7月24日火曜日

太田禮二さんを偲んで
      金子貞吉(中央大学名誉教授)
 今年1月、太田禮二さんが逝去されました。享年85歳、滋賀県の出身。
 氏は、三鷹市で革新懇運動に長年にわたって活動され、教師定年の後、地元でも革新懇が必要だという強い意欲で、20119月に発起人となって「小金井革新懇」を立ち上げました。会の事務局長として、毎月世話人会を開催し、「言葉より行動」という姿勢で、いかに革新懇の運動を広げるかに腐心されました。統一運動には、細部にこだわらず「平和・民主・革新」の3共同目標に賛同する個人や団体なら、一緒に闘おうという強い信念でした。
  発足以降6年間、毎月「小金井革新懇ニュース」を発行・配達し、病床でもニュースの原稿を書き続けていましたが、昨年71号で終刊しました。
 氏は、会の推進軸となり、学習会を開き、歴史遺跡や戦争の痕を見学し、戦争法反対等のパレードを導きました。2014年には、戦時体験を記録に残すために、市民文集『わたしの戦争体験』第1集を企画し、29名の執筆者を集め、70ページを発刊しました。心から太田氏の冥福を祈るばかりです。