2011年9月6日火曜日

松浦総三さんを偲ぶ 


松浦総三さん(東京革新懇・顧問)
 8月6日、結腸がんのため死去。享年96歳。
1914年、山梨県生れ。1939年、渋沢栄一伝記資料編纂所入所。1946年、改造社入社。1965年、改造社解散により退社。以後フリーのジャーナリストとして評論活動に入り、東京空襲を記録する会代表、全国革新懇代表世話人、「東京都平和祈念館(仮称)」建設をすすめる会代表世話人など務めました。
 1981年11月に開催されたシンポ『どうなっている?東京の地震対策』(主催;東京懇話会)において、今日にも教訓となる、次のような発言をされました。「関東大震災も、東京大空襲も人災である」「地震そのものの恐ろしさもあるが、流言飛語、デマがりょう原の火のごとく広がったことだ」「私が一番恐れるのは、そういう地震というチャンスを利用した憲法改悪や反動化だ。この点からいっても地震による“人災”を防ぐのは革新統一、革新政治が必要だと思う」。


 反権力の立場を貫いた“仕事”歴から
             
   土岐 島雄〈東京空襲を記録する会同人〉
 自らの「職歴・仕事」を記したペーパー1枚を残して松浦総三氏が逝った。96歳・(2011年)7
月6日ガン死・近親者による葬儀。二週間後の新聞(朝日)23日付朝刊ベタ記事に気づき弔問する客に、それは配られた。A4判紙裏表、職歴(四項)につづく〝仕事〟歴は「書かれざる東京大空襲」(『文藝春秋』68年3月号掲載、54歳)に始まり、「『天声人語』の天皇と戦争」(2000年、蝸牛新社刊、86歳)で終わる30点余りの執筆・著作物に集約された。庶民意識の不在を嫌い、反権力の立場を貫いて選び記した。まさにジャーナリスト自らの仕事そのものを現している。
 はじめ、遅れてきた「改造」出の週刊誌ライターは取材・執筆にもまれながら自らのテーマを戦中・戦後の言論弾圧や報道統制に特化させ執筆・寄稿に励んだ。単行本『占領下の言論弾圧』(69年、ジャーナリズム出版会刊、55歳)に実を結んで評価を得るが、この頃、並行する〝空襲を記録する運動〟仕事が米軍押収資料の返還・公開とか収集資料の保存・記録館づくり運動とかと連動して、その目的たる大部刊行物の編集まとめに精力を使い果たさんばかり。空襲戦災記録(東京五巻、全国一〇巻)と特高弾圧史(八巻)の編著刊行を終え、77年、63歳時には、文春批判の二書を含む六書を出して〝公私とも大変。妻の入院、妻の母の死、家の新築〟と唯一、身上の労苦を記している。『清水幾太郎と大宅壮一』(78年、世界政治経済研究所刊、64歳)という本来仕事ももの(・・)にし、本多勝一にほめられたと云う。
 天皇制ウオッチャーの役が加わる平成に入り、天皇と空襲の関係三著を出すが、昭和の最後1988年(74歳)に『天皇をどうみる』(111人の直言、松浦総三編)を全国革新懇から刊行し、3万部を売っている。


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