2010年12月31日金曜日

江戸の正月・東京の正月 田中 優子

  正月とは何か? 
 そう疑問を抱いてしまったのは、沖縄県八重山諸島に行ったときだった。八重山諸島の石垣島では、旧暦の八、九月にマユンガナシーという来訪神が出現する。これを「節祭(しつまつり)」というのだが、その場合の「節」とは、正月節のことだというのだ。

 つまり風土が違う。気温が異なる。そうすると作物の収穫時期が違ってくる。八重山では穀物が二月から五月に熟すので、かつてはその時期に収穫儀礼や新年儀礼がおこなれたのである。考えてみれば、地域の風土によって「新たな年」を迎える日付が違うのは当たり前で、地球上がみな同じ日に正月を迎えるのは、現代だけであろう。

 東京近辺に話を移すと、田植えをする月の直前の満月の日も年の境目だった、という説がある。そうなると旧暦四月一五日がその日にあたる。これは今の暦の五月中旬から下旬のあいだになり、まさに田植えの季節である。五月五日は江戸時代まで女性の節句ので「女正月」と言い、女性たちがそれ以降の忙しい日々に備えて休む日だった。「正月」という名称は、やはりこの時期に使われていたのである。

 しかし、別の観点もある。正月でもっとも大事なのは「来訪神」つまり歳神(としがみ)だ。ナマハゲがその代表だが、彼らは小正月に来訪した。小正月とは旧暦一月一五日の満月の日から二〇日までを言う。その時に来訪神の依り代である門松が飾られ、供え物である鏡餅が供えられた。各家では年神棚・恵方棚を作り、供え物を置いた。神を迎えると神と共食することによってその力を身につけようとしたのである。

 江戸時代になると、正月は一月一日からということになった。しかしこの一月一日も、旧暦なのだから今とは異なる。たとえば二〇一一年は、二月の三日が正月の一日になる。今よりはるかに新春に近い。二月の二日が旧暦の十二月三〇日、つまり三十(みそ)日(か)で、一年の最後の三十日だから「大みそか」という。ちなみに、江戸時代に三十一日という日付は存在しない。

 その大晦日の食事が「おせち」である。おせちとは五節句の料理、という意味で、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日にもおせちを食べた。正月のおせちは神を迎えた宴である。神は大晦日にやって来るので、おせちは大晦日に食べた。そのまま眠らずに神とともに起きていて、朝になると供え物を下ろして雑煮とした。その元日の朝、人々はいっせいに年を取った。誕生日に年をとるのではなく、元日に年をとる。だから屠蘇を飲む。肉桂、山椒、桔梗などの生薬が入った薬酒である。おせちの中に数の子やごまめが入るのは豊穣の祈願であり、黒豆や昆布巻やするめが入るのは長寿の祈願である。もとより味は問題の外にある。
 江戸らしい正月の風景と言えば、予祝芸の芸人たちが町を歩くことだろう。赤い布で覆面した「節季(せき)ぞろ」、頭を白い布で包んだ願人坊主「まかしょ」、獅子舞、大黒舞、万歳などが歩く。彼らは非人たちである。この世を祝う者たちは、被差別の者たちだったのだ。
 正月に目を向けるだけで地域や風土による多様性が見え、祝賀を被差別民にゆだねていた都市の姿が見える。

(プロフィール)
法政大学社会学部メディア社会学科教授
法政大学国際日本学インスティテュート(大学院)教授
近世文学(江戸時代の文学)を専攻するが、江戸時代の価値観から見た現代社会の問題に言及することも多い。

 2005年度 紫綬褒章受章 近著:「きもの草子」(ちくま文庫)「布のちから」(朝日新聞出版)「江戸百夢」(ちくま文庫)「未来のための江戸学」(小学館)「江戸っ子はなぜ宵越しの銭をもたないのか?」(小学館)