2022年5月31日火曜日

 早乙女勝元さん安らかに 


柴田桂馬「東京都平和祈念館(仮称)建設をすすめる会」世話人

 5月10日、早乙女勝元さんが逝去されました。

早乙女さんは少年時代、東京足立区で空襲を体験されたとのことですが、1970年6月下旬の頃、家永三郎先生と話合う機会があって、その際、教科書に東京空襲にかかわる記述をして欲しいとの進言をしたところ、先生が「資料らしいものがほとんどない」と言われたことがきっかけになって、東京大空襲を記録する会を発足させ、「東京大空襲・戦災誌」発行の取り組みを進めたということです。

1979年の都知事選挙に当たっては、12人の各界の著名な文化人とともに候補者に「空襲・戦災資料館」建設の公開要請書を送り、この選挙で都知事となった鈴木俊一氏から肯定的な回答を得るなどの成果を上げました。

こうした活動が「戦争の惨禍を繰り返すな」の世論をひろげ、1990年7月には東京都が平和の日条例を公布・施行、「平和記念館」建設への具体的な一歩を踏み出し、1995年3月10日の東京都平和の日記念式典で「東京都民平和アピール」を採択するなどという画期的な時期をつくりだす礎石となってきました。

ところがかつて日本の政府と軍部がすすめた侵略戦争を肯定・美化する一部の都議の策動で平和記念館建設が1998年以降「凍結」状態とさればかりか、石原都政になってから、東京都は早乙女さんに、「東京大空襲・戦災誌」の編集・発行の過程で全国から寄せられた貴重な資料について、保管料の支払いを要求してくるという、全く理不尽極まりない暴挙にでてきました。

このとき早乙女さんは、「こうした石原都政を許せない。私は私財を投入してでも、資料を寄せてくれた人びとの思いを活かすために民立・民営の資料館を建設します」と怒りに煮えくりかえる胸の内を私に話してくれました。

しかしながら早乙女さんの思いは都立の平和記念館の建設であり、その意味で「道半ば」という状況であったわけです。

私は、この思いを受け継いでいっそう「戦争の惨禍を再び繰り返さないことを誓う」東京都平和記念館建設にむけて都民の皆さんとともに歩をすすめていきます。

早乙女さん、ぜひ私たちの前途を見守っていてください。

早乙女 勝元さん(東京革新懇世話人)略歴

1932326東京都生まれ

194539深夜から310未明にかけて東京大空襲を体験

1952に「下町の故郷」で直木賞候補

1970に「東京空襲を記録する会」を結成

1971 日本ジャーナリスト会議奨励賞(「東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録」)

1975 菊池寛賞・日本ジャーナリスト会議奨励賞(東京空襲を記録する会「東京大空襲・戦災誌」)

1992 15日本アカデミー賞特別賞(『戦争と青春』で企画賞)

2002東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長就任。2019退任、名誉館長

著書多数

2022510日逝去90歳。 

2019年10月30日水曜日

共闘の新しい時代と革新懇の役割
      乾 友行全国革新懇事務室長

928日の東京革新懇学習交流会での乾友行さんの発言を紹介します。

野党政策の発展と要求運動との結合 
今、私が大事と考えていることを話します。
 市民連合を介して野党が13項目の共通政策をつくった。大きな意義のある発展だ。くらし、平和、民主主義での新しい姿を示している。第3項目は膨張する防衛予算について、憲法9条の理念に照らして国民生活の観点から他の政策の財源に振り向けること。軍事費削って福祉、くらし、教育に回せという私達のスローガンを想起させるこの見地が、いまや野党全体が合意している。参院選後、れいわと共産党がと党首会談で合意した政権構想、政策合意の基本は13項目と確認。政権合意の土台になる政策を確認出来るようになってきた。13項目は、農業問題、年金問題、日韓問題とか入っていず、拡充が求められる。革新懇が掲げる3つの共同目標、ここに接近してゆくトレンド、方向を13項目に見て取ることが出来るのではないかと私は考えている。
 政党合意で13項目つくったが、背後には市民運動がある。象徴的なのは、金曜日の官邸前反原発集会。去年の秋からスローガンで、原発ゼロ政権誕生を掲げている。核兵器の問題でも、17年の都議選直後の86日広島で安倍首相が被爆者代表と懇談、被爆者は怒りに体を震わせ「日本政府が核兵器禁止条約に賛成しないとは許せない。都議選を見なさい。自民党が負けた。今度は国政選挙でそれをやるよ」と面と向かって言った。参院選、沖縄で当選した高良さんのビラには「建白書を実現する新しい政府をつくろう」となっている。これまでは大衆運動は要求の実現だけだったのが、それを実現する政府をつくろうとなってきている。この発展が、13項目あるいは新しい政府をつくろうという時の基盤になってきている。故に、3つの共同目標をもって国民が主人公の政府をつくることを目的とした革新懇が果たすべき役割はいよいよ大きくなってきている。

地方政治の問題 
市民と野党の共闘は、戦争法反対など国政の課題で、地方での共闘は出来なかった。地方政治では、オール与党で共産党を除く政治がずっと続いてきた。国政の課題での共闘とオール与党の地方政治、それが60年代、70年代の革新運動とは大きな違いだった。地方政治が変わらずに国政だけで野党連合政府できるわけがない。地方、地域で3000万署名をはじめとする大衆運動の中での共闘の積み重ね、発展、3度の国政選挙での共同の追求の中で共闘を深めてきた。そのことによりオール与党体制がひび割れてきている。埼玉、岩手知事選で勝ち、この秋、高知県知事選でも市民と野党の共闘でやろうということで動きが有り、来年2月の京都市長選挙も市民と野党の共闘やろうとの動きになっている。新潟の県議選では、1人区2人区で統一候補を立てた。高知では、高知アクションが県議選で16人推薦し、県民の会5人、共産党5人当選している。東京でも各地で首長選が共闘でたたかわれている。
 首都東京で、都知事選で市民と野党の共闘が発展し勝利することは決定的な意味を持っている。東京が変われば日本が変わるとよく言われるが、地方政治を変えてゆくだけでなく、国政を変えていく上でオール与党の政治がネックになっている。それを取り払わなければ、しっかりした野党連合政権は出来ない。つくっていくカギが、東京でオール与党体制を打ち破り新しい都政をつくることだ。そういう位置づけも含めて東京の革新懇に頑張っていただきたい。

革新懇をつくる意義 
今度の総選挙は、市民と野党の共闘の勝利、野党連合政権を掲げてたたかう。すべての小選挙区に市民連合をつくることを全国革新懇は強調している。参議院選後の佐賀市民連合では、候補者決定が決定的に遅かったから負けた。相手は強固な後援会組織、地域組織を持っており、県段階で共闘できたが地域レベルでの共闘できなかったと総括している。佐賀革新懇では、すべての地域に市民連合をつくるといっても誰がつくり、支えるのかという議論になり、選挙で勝つためには地域に革新懇をつくるとの議論を進めている。
 野党連立政権をつくることが現実の課題になってきているが、選挙で勝つこと自体大事業だから、それを支える革新懇が大事だし、市民と野党の共闘をつくらなければならない。選挙で勝つために要求闘争、13項目をはじめとする大衆運動、3000万署名など取り組んでいくこが必要だが、野党連合政権が出来て実際の政治をやってみると、財界本位、アメリカべったりという2つのゆがみにぶつかるのは明かだ。その時に、そことたたかい、なおかつ国民が主人公の政府、民主連合政府をつくる展望を持ったときに、その推進を地域から支える地域の統一戦線をつくることは戦略的課題だ。目の前の課題のために革新懇をつくるだけじゃなくて、もっと遠い、私達の本来の目標から見て地域にどれだけの政治的統一戦線が必要なのかということを腹に据えて革新懇をつくることを考えなければいけない。
 二つ目に、革新懇があろうがなかろうが、その地域の労働組合、新婦人、民商、民医連、共産党などが、全国どこでも参院選でも地域の共闘を支えている。忙しいから革新懇をつくるのに手が回らないという実状もある。しかし、革新懇をつくる「余裕」はない、という方も、野党の共闘を支えているのは自覚的民主勢力と共産党だというと、みんなそうだとなる。不可欠な役割を果たしている。革新懇は、自覚的勢力や共産党が、市民と野党の共闘、統一戦線運動を発展させるために、より効率的に、より組織的に、継続的に力を合わせる組織だ。だから、余計な仕事をやるんじゃなくて、自覚的勢力がやっていることを効率的組織的系統的にやるのが革新懇であり、それは不可欠の組織だ。是非、革新懇の再建、結成を進めて欲しい。(文責・東京革新懇)


2019年10月4日金曜日

国民が主人公の世の中、国民が主人公の政治、国民が主人公の日本の実現をめざす革新懇運動
 全労連や新婦人、民医連、農民連、全商連、民主青年同盟などの運動を、より組織的に継続的に効率的に力を合わせる組織が革新懇である。けっしてよけいなもの、荷物になるもの、わずらわしいものではない。東京の各市区に革新懇をつくり、共同を広げて、市民と野党の共闘で政治を変えていきましょう。
 今、市民と野党の共闘がすすみ、全国の各地で市民連合の結成が行われ、今度の衆議院選で自公勢力を打ち負かそうと、動きを強めている。
 この動きをいっそう強めて、安倍政権に代わる政権を実現しましょう。先の参院選では市民連合と5野党・会派が13項目の「政策合意」を結びました。これを土台に各地の小選挙区で市民と野党が地域の独自の政策を加味した素晴らしい政策合意ができるよう力を合わせましょう。

























































2018年7月24日火曜日

太田禮二さんを偲んで
      金子貞吉(中央大学名誉教授)
 今年1月、太田禮二さんが逝去されました。享年85歳、滋賀県の出身。
 氏は、三鷹市で革新懇運動に長年にわたって活動され、教師定年の後、地元でも革新懇が必要だという強い意欲で、20119月に発起人となって「小金井革新懇」を立ち上げました。会の事務局長として、毎月世話人会を開催し、「言葉より行動」という姿勢で、いかに革新懇の運動を広げるかに腐心されました。統一運動には、細部にこだわらず「平和・民主・革新」の3共同目標に賛同する個人や団体なら、一緒に闘おうという強い信念でした。
  発足以降6年間、毎月「小金井革新懇ニュース」を発行・配達し、病床でもニュースの原稿を書き続けていましたが、昨年71号で終刊しました。
 氏は、会の推進軸となり、学習会を開き、歴史遺跡や戦争の痕を見学し、戦争法反対等のパレードを導きました。2014年には、戦時体験を記録に残すために、市民文集『わたしの戦争体験』第1集を企画し、29名の執筆者を集め、70ページを発刊しました。心から太田氏の冥福を祈るばかりです。

2018年4月2日月曜日

西井 教雄さんを忍ぶ
      若林義春(日本共産党東京都委員長)

 西井さんは、1983年から1990年までの6年余、党の東京都委員長を務められました。この時代は、1980年の社会党の右転落を契機に、共産党排除の政治体勢がつくられ、これに対抗する民主運動の側では、党と良識ある知識人や文化人とも協力して新しい統一戦線運動としての全国革新懇が結成されました。こうした時期に党中央の常任幹部会委員や東京都委員長として活躍されたこともあり、勇退後も、東京革新懇の代表世話人を続けられたのではないかと思います。出身は兵庫県神戸市だったと記憶していますが、東京の足立区に住み続けられ、いろいろな形で都党の応援を続けてくれました。
 西井さんは、都委員長時代、大変誠実でやさしい人柄だったことをよく覚えています。私は1997年に党都委員長に就任しましたが、以来しばしば東京革新懇の会合などで顔を合わせると、いつも声をかけてくれ、激励してくれました。
 この間は、西井さんのお顔を見ることがあまりなかったので、心配をしていました。そして、突然のご訃報に接することとなりました。改めて西井さんの東京の党と民主運動の発展への大きなご貢献にたいして、心からの感謝を申し上げます。

西井教雄さんの略歴
1923年神戸市生まれ
1946年日本共産党に入党
 兵庫県下の各地区で活動
日本共産党中央委員会赤旗編集局勤務
日本共産党長崎県委員長
日本共産党中央委員会機関紙編集局長など歴任
1983年から90年 日本共産党東京都委員長
同委員長退任後も、2009年まで東京革新懇代表世話人
2010年より東京革新懇顧問

2017年7月29日土曜日

 憲法施行70年を記念して
 決意も新たに!
 畑田重夫(国際問題研究者、東京革新懇顧問)

 いま、日本は戦後最大の政治的分岐点に直面している。というのは、今の日本が、「戦後レジュームからの脱却」を唱えながら、「憲法改定」=「戦前回帰」を至上命題ともライフワークともする安倍晋三政権下にあることと深く関連している。
 安倍首相は、こともあろうに「憲法施行70年」にあたる今年の53日に、2020のオリンピックの年を新しい憲法施行の年にするという個人的野望を明らかにした。
 筆者は青年・学生時代に「学徒出陣」によって丸2年間の軍隊生活を強いられた。東部第63部隊という陸軍部隊に同期入隊した2000人の学友のうち、今日現在の生存者は筆者一人のみである。たまたま病気のため陸軍病院に入院加療中であったために奇跡的に筆者のみが生き残ったのである。仲間たちは、中国へ渡る途中、バシー海峡でアメリカの魚雷攻撃にあい輸送船もろとも全員海の藻くずと消えたのであった。
 生き残った筆者の戦後生活は当然ながら「戦争だけは絶対ダメ」という気持ちを胸に、日本国憲法とともに始まった。したがって、一日たりとも憲法手帳をわが身から離さず、「迷った時や困った時には必らず憲法に問え」を生活上の指針として今日まで生きてきたわけである。憲法公布70周年に当る昨2016年には『わが憲法人生70年』(新日本出版社)を上梓した。

 省みれば、戦後70余年にわたる筆者の生活の軌跡は、憲法12条にみる「不断の努力」によって自由と権利を守るための切れ目のないたたかいの連続であった。
 もちろんそれは決して筆者個人の問題にとどまることではない。日本の労働者・国民が平和と民主主義を守るためのさまざまな形態のたたかいをつみ重ねてきた歴史でもあった。

 沖縄の現状をみるまでもなく、日米安保体制が日本と日本国民にとっての最大の障害物である。革新懇運動もこの認識を前提としていた。しかし、いまは、日米安保条約も自衛隊も認めるが、海外で戦争することだけは絶対反対という広大な国民世論と野党4党が改憲に執念を燃やす安倍政権の前に立ちはだかっている。都議選の成果のうえに立って改憲安倍政権の暴走にストップを!
憲法施行70年を記念して
サンフランシスコ体制を考える
 都丸哲也(元保谷市長、東京革新懇顧問)
 
一九五二年四月二八日、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が同時に発効した。日本は六年八ヶ月に及ぶ占領から解放され主権を回復した。
 しかし、それは、沖縄、小笠原諸島の分離や講和後の米軍の駐留継続という主権制限を押しつけられた異常な講和の「代償」であった。しかも「極東における国際の平和と安全の維持」を名目にした米軍の駐留は、合衆国が極東で遂行する戦争に日本が参加を要求される可能性をもっていたし、「内乱鎮圧」を目的とする駐留は内政干渉の可能性を有し、さらに行政協定で認められた米軍関係者の諸特権は不平等条約そのものであるといえよう。
 合衆国政府が対日講話に積極的な姿勢をみせはじめた一九四九年秋頃から、日本国内においては講和問題への関心が高まっていた。なかでも一九五〇年一月に安倍能成ら三一名の知識人が、片面講和は「特定国家への依存及び隷属」をもたらすとして、あくまで全面講和の実現を求めるとした声明は多大の影響を与えた。一九五〇年五月に吉田首相が、渡米中に全面講和論を主張した南原繁東京大学総長を「曲学阿世の徒」と非難したのも、全面講和論の影響の広がりを恐れてのことであった。
 一九五一年一月一九日、社会党は講和三原則(全面講和、中立堅持、軍事基地反対)に「再軍備反対」を加えた平和四原則の立場を明確にした。共産党は講和を民族独立に必須の問題と位置づけ五一年一月には全面講和のための一大国民運動を提唱した。朝鮮戦争勃発時には、国連軍を支持していた総評も五一年三月の第二回大会では、社会党の提唱した平和四原則を採択した。しかし片面講和は合衆国の計画どおりに強行された。だが個別的、具体的課題については必ずしもスムーズにはいかなかった。一九五三年一〇月三〇日に発せられた「自衛のための自発的精神、愛国心の涵養を図り『九条』を改める道を開け」という池田・ロバートソン声明など命令形で出されてきた。
そして、現代に至るまで日本国憲法と安保条約の相克が続くことになる。
今、安倍首相はすすんで「九条」を死文化しようとしている。これを許してはならない。憲法施行七〇周年の私達の最大の課題である。