2017年7月29日土曜日

憲法施行70年を記念して
サンフランシスコ体制を考える
 都丸哲也(元保谷市長、東京革新懇顧問)
 
一九五二年四月二八日、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が同時に発効した。日本は六年八ヶ月に及ぶ占領から解放され主権を回復した。
 しかし、それは、沖縄、小笠原諸島の分離や講和後の米軍の駐留継続という主権制限を押しつけられた異常な講和の「代償」であった。しかも「極東における国際の平和と安全の維持」を名目にした米軍の駐留は、合衆国が極東で遂行する戦争に日本が参加を要求される可能性をもっていたし、「内乱鎮圧」を目的とする駐留は内政干渉の可能性を有し、さらに行政協定で認められた米軍関係者の諸特権は不平等条約そのものであるといえよう。
 合衆国政府が対日講話に積極的な姿勢をみせはじめた一九四九年秋頃から、日本国内においては講和問題への関心が高まっていた。なかでも一九五〇年一月に安倍能成ら三一名の知識人が、片面講和は「特定国家への依存及び隷属」をもたらすとして、あくまで全面講和の実現を求めるとした声明は多大の影響を与えた。一九五〇年五月に吉田首相が、渡米中に全面講和論を主張した南原繁東京大学総長を「曲学阿世の徒」と非難したのも、全面講和論の影響の広がりを恐れてのことであった。
 一九五一年一月一九日、社会党は講和三原則(全面講和、中立堅持、軍事基地反対)に「再軍備反対」を加えた平和四原則の立場を明確にした。共産党は講和を民族独立に必須の問題と位置づけ五一年一月には全面講和のための一大国民運動を提唱した。朝鮮戦争勃発時には、国連軍を支持していた総評も五一年三月の第二回大会では、社会党の提唱した平和四原則を採択した。しかし片面講和は合衆国の計画どおりに強行された。だが個別的、具体的課題については必ずしもスムーズにはいかなかった。一九五三年一〇月三〇日に発せられた「自衛のための自発的精神、愛国心の涵養を図り『九条』を改める道を開け」という池田・ロバートソン声明など命令形で出されてきた。
そして、現代に至るまで日本国憲法と安保条約の相克が続くことになる。
今、安倍首相はすすんで「九条」を死文化しようとしている。これを許してはならない。憲法施行七〇周年の私達の最大の課題である。

 

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