2013年12月25日水曜日

革新懇全国交流会

革新懇運動は、国政を変える
      統一戦線の『架け橋』
大阪で「地域・職場・青年革新懇全国交流会」を開催            全体会 2013年11月16日 於 堺市 
   (全体会で連帯挨拶をするミサオ・レッドウルフさん)
安倍政権の暴走とそれを食い止める国民のたたかいが「激突する情勢」のもと、全国革新懇は2013年1116日、大阪で「地域・職場・青年革新懇全国交流会」を1700人の参加で開催しました。東京革新懇から、25名の参加がありました。
全国革新懇から「問題提起」で、「各分野での一致点にもとづく要求実現を求める共同を誠実に発展させ、政治を変える新しい共同に大きく合流、発展させよう」と呼びかけられました。
『一点共闘』から統一戦線へ
特別発言を行った志位和夫日本共産党委員長(全国革新懇代表世話人)は、「各分野で発展する『一点共闘』が互いに連帯する大きな流れにしていく『要』としての役割を果たそう。『一点共闘』が国政を変える統一戦線へと発展していく『架け橋』の役割を果たそう」と訴えました。
西東京革新懇が報告
全体会で西東京革新懇のさんは、「脱原発」と「憲法9条を守る」一点共闘の取り組みを報告しました。
市内にある18の反原発関連の団体に呼びかけ、「みんなのNONUKES西東京」を結成、市内の5駅をリレーする駅頭・散歩街頭宣伝、「原発シンポと親子イベント」、西武沿線92駅アクションなど多様な取り組みを持続しています。また、12の「9条の会」が中心となって、「SAVEザ9条・SAVEザ憲法 西東京実行委員会」を結成し、地域新聞に「戦争のできる国はイヤだ。だから憲法9条を守りたい」との意見広告を1080人の賛同で成功させました。
共同の要である地域革新懇(分散会11月17日エル大阪)
分散会では、松元代表世話人が、東京の地域革新懇が、原発ゼロや秘密保護法反対などの共同で「要」の役割を果たしていることを具体的に紹介しました。新堰代表世話人は、東京革新懇が全ての自治体に革新懇を結成することをめざし「地域革新懇活動の手引き」を作成したことを報告しました。
職場革新懇シンポでは
未来をひらく全日空の会の杉山事務局長は、「秘密保護法、国民の目・口・耳を塞ぐ悪法は、重く圧し掛かってきます。航空働者に米軍機とニアミスして報告すると、米軍機の行動が秘密機密扱いとなれば罪になる。航空機部品には、多数の米軍公知規格の部品を取り扱っています。これを誰かに喋ると、これも罪になる、など他人事ではありません。反対の声を職場に広げていくのも革新懇の役目です。」と決意を語りました。
「学び、楽しみ、行動する」をスローガンに掲げ活動している西武革新懇の青木代表世話人は、「もっと大きな視点」が大事ではないかと提起し「西武鉄道に働く人にも、利用者にも、住民にも優しい鉄道であり続けるために労働者、住民目線で経営政策などにも提言・批判を発信することが必要と考えていると、述べました。

2013年12月18日水曜日

老婆の叫び
 大峰順二 劇作家・演出家(東京革新懇世話人)

2010年の春。パソコンに長いメールが飛び込んできた。岩手県・西和賀町の生涯学習課で働く職員からである。その趣旨は、西和賀町にしかない町民劇をやりたいという事であった。

 西和賀町は、かつて「健康と福祉の村」として全国に名をはせた沢内村と、鉱山景気で活況を呈した湯田町が合併したことによって生まれた。しかし、合併によって誕生した新しい自治体が、夢や希望にあふれた歩みを始めたのかといえば、そんなことはない。沢内村の「健康と福祉」は、相次ぐ自治体いじめの嵐の中で赤信号を灯していたし、湯田町は、鉱山景気が去った後、温泉を頼りに観光地化を目指したが、成功してはいなかった。

 「……そんなわけで、西和賀町としての明日がなかなか見えないのです。高齢化は進む。若者は町を出る。後継者がいない。食い止めようにも仕事が創出できない。このままではいけない。そんな思いはあるのだけれど、どうすればいいのか。それを町民劇づくりの中で考えたいのです」

 私は、さっそく西和賀町に向かった。以後、80人を超える町民たちの参加で行われた「思いっきり語る会」の傍聴、聞き取り取材、さらには実行委員との懇談を深める中で「西和賀町物語」を書きあげ、上演にこぎつけた。2012年、晩秋の事である。

その上演中、場面は「夜の道行」。歩いてくるのは若い男女。男が星空の下でプロポーズをする。だが女は返事をしない。男には仕事がなく、先行きも見えないのだ。その時……。客席から大きな声が飛んだ。声の主は、老婆だった。

「がんばれ! まんず、すかたね!」

 まんず、すかたね……。そう叫んだ老婆の胸は、若者が定住し、結婚をし、子供を育てていける、そんな町でなければ未来はない。そんな思いで張り裂けそうだったのではないか。年を重ねてきた者の怒りだ。眼には涙が光っていた。

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    東京革新懇代表世話人

    浜崎和馬さんを悼む
       東京革新懇代表世話人 松本秀典
  
東京革新懇代表委員で、東京土建本部副委員長の濱﨑和馬さんが115日、虚血性心不全で急逝されました。享年65歳。
濱﨑さんは、1969年、東京土建中野支部に加入し、青年部にも加入。家業の畳屋を父とともに支えながら、地域の青年たちと青年活動やうたごえ運動にも積極的に参加していきました。物おじしない、それでいて気さくな人柄は、このような運動の中で培われてきたものかもしれません。その後、1984年に中野支部常任執行委員、1998年には支部執行委員長、2008年から東京土建本部副委員長になられ、40年以上にもわたって東京土建運動はもちろん、諸々の民主的運動の先頭に立って奮闘されてきました。亡くなる当日も、東京土建の国会行動に参加し、憲法改悪と脱原発を訴えられました。帰ってきてから、愛用の釣り道具の手入れをしていて、眠るように逝かれたそうです。ビールの飲みっぷりが豪快でした。

「ハマちゃん」と親しまれた濱﨑さんのご冥福をお祈り申し上げます。


  



2013年10月18日金曜日

10月12日 東京革新懇 人間講座

「畑田重夫の憲法とともに生きる」
  120人の参加者 感動のうずに
 あわてず、あせらず、あきらめず


     オープニング  コイワズライさんのギターとサックス
               若者も多数参加
トークセッション
力の入った人間講座に      1012日、エデュカス東京において東京革新懇の人間講座、畑田重夫の「憲法とともに生きる」を開催。学生や青年を含め120人が参加しました。
若手「コイワズライ」によるギターとサックスの軽快な演奏とうたでオープニング。
若者作成のチラシを示しながら、若い人たちと一緒に学ぶことが長年の念願だったと切り出した畑田さん。力の入った人間講座となりました。
ひとりだけ生き残った!
いま卒寿、今年学徒出陣70周年という節目の年。学友はバシー海峡で船もろとも全員死亡。たまたま陸軍病院に入院していて一人だけ奇跡的に生き残った。
「草も木も鳥も人も獣も虫けらも、もとは一つなり、みな地球の子」とうたった作家の藤原審璽さんの肝いりで始まったこの人間講座。地球温暖化、原発で汚されている日本、どう生きるかを問うている謂われのある人間講座である。以下憲法人生、戦争体験、内外情勢について。
迷った時には憲法に問え
学友や無言館の若者たちの血や涙、日本国民三百万人、アジア諸国二千万人の命が込められている日本国憲法。歴史的に、深刻で悲惨な体験をした場合にはそこに一定の思想が生まれる。それが格調高い人権宣言や憲章となる。まさに広島、長崎を体験した日本国憲法がそうである。非常に新鮮な感動を覚えたのを今でも忘れることができない。日本国民がどれだけ感動したか。「心躍る日本国憲法誕生の時代」(岩田行雄著)に詳しい。迷った時には憲法に問え、で読憲、学憲、愛憲、活憲、書憲を行い、徹底して憲法とともに生きる。
亡くなった友への友情の使命、犠牲者への使命
妊婦の殺害や生体検査などを行ったため戦争体験を話せない人が多い。全部責任は天皇はじめ戦争指導層にある。大日本帝国憲法第20条に日本臣民は兵役の義務を有すとあり、194310月、それまで兵役免除だった文科系学生が学徒出陣となった。大学一年の時、陸軍東部第63部隊に入隊。何やってもすぐ殴られる。おはようといってもすぐビンタ。それで手振り文字をみんなで考案。自殺した友もいた。一緒に苦労した友人たちも輸送途中で20歳の若さで亡くなった。何としても戦争だけはくいとめなければならない。節制して少しでも長生きして平和と民主主義、社会進歩に貢献することが、亡くなった友への友情の使命であり、犠牲となった国民に対する使命である。
今の情勢は戦前とほとんど同じ
米中は対決ではなく経済的パートナーである。米国国債を中国が多く買っている。「遠くの親戚よりも近くの他人」という言葉がある。ところが今日本政府は中国、韓国と対立。これは全部日本の側に問題がある。先日九条の会が、憲法が断崖絶壁の近くにあるとアピールを出した。安倍氏は、改憲が「歴史的使命」と言っている。第一次安倍内閣は国民投票法、教基法の改悪、防衛省格上げを行った。いままた、国家安全保障会議、特定秘密法案である。戦前とほとんど同じである。又戦争かという思いである。我々は今何をなすべきかが問われている。
トークセッション  (司会は井佐哲郎運営委員。ガチトーク青年革新懇代表) 
<主な質問>
○敗戦後、新憲法を一般国民はどううけとめたか。
○平和憲法を変えようという動き、どうしてか。
○日本の植民地支配について
○ヘイトスピーチについて
○和田捕手との家族ぐるみの付き合いとなったいきさつや「ライオンズ時代がやってくる」について
○若者の現状、最近の原発ゼロや排外主義反対デモに若者も参加しているが…
○学生9条の会の講演会のお誘いをしているがなかなか関心を示してくれないが…
 これらの質問にユーモアをまじえて答えました。どんな国でも、どんな時代でも若者が中心的に活躍する。
相手の目線で話をじっくり聞き、自分の言葉で、相手の琴線に触れる言葉で、あわてず、あせらず、あきらめず相手に向き合うことが大切であると話しました。和田捕手との家族ぐるみの付き合いになったいきさつも含め、参加者に大きな感動を与えました。

参加者の感想の一部。
○最高に楽しかった!
○日本の今の現状を聞くことができてとても勉強になりました。軍隊にいた時の話などは今の戦争からはなれている日本にはとても貴重な話なので自分もこの講座の内容を伝えていきたいと思いました。
○わかりやすい言葉で、政治、憲法のお話をお聞きでき、日頃のニュースを身近に感じることができました。こんなに自身にも関わる事なのに、難しくて興味を持てずにいる事は勿体ないとさえ感じました。私は20代ですが周囲の知人にも聞いてもらって国民で関心を深めて行かないといけないと思いました。
○大変なことをユーモアをまじえて話され、参加してよかったと思います。最後に話された今の若者たちの大変さの根源は新自由主義からくる「自己責任論」ということが胸にストンとおちました。
○投票率が4割台という低迷の中で自公与党が圧勝した参院選。わずかながら共産党が躍進したのが希望ではありますが、このまま与党が諸法律を数で圧倒していくのではと危惧しています。きょう畑田先生のお話を聞きそれでもあきらめずに歩んでいくことが大事と気持ちを新たにいたしました。ありがとうございました。
○畑田さんのお話で原爆投下はソ連や中国がしたことだと思っている若者がいるという話を聞いてびっくりしました。歴史の真実を知らないことがとても恐怖だと実感しました!!また畑田さんが毎日、憲法手帳を持ち歩いている理由をきいて、憲法が畑田さんにとって死んでしまった戦友たちの思いがつまっていることをきいて、改めて憲法改正は許せないことだと思いました。
○軍隊の体験談がなまなましく70年前の話だと思われませんでした。
○まだまだ話を聞いていたいほど 充実した時間でした。そして、まだまだ自分自身の勉強不足を痛感し、もっともっと知りたいことが増えました。大先輩から元気 勇気をいただいてまた、教育現場でがんばっていきます。

2013年10月1日火曜日

五輪と平和と被災地事情
     ー日々の思いによせて      
  
川嶋みどり 
  日赤看護大学名誉教授
  東京革新懇世話人  
 7年後のオリンピック開催が東京に決まった際先ず浮かんだのが、この2年半のあいだの被災地事情であった。定年後の看護師数名で”東日本これからのケア”を立ち上げて、不自由な仮設住宅での孤立感を少しでも和らげ、お隣さんづくりに役立ちたいと小さな活動を始めてから23ヶ月。ハンドケアやフットケアをしながら、季節ごとの体調保持の実技や健康相談、お茶っこ会、楽しくつくって美味しく食べる会などを続けて来た。それぞれの喪失感や悲しみの質は時を経て変化はしても、決して軽くならないことを感じながら、仮設生活の不自由さをかこつ声に耳を傾けてきた。
 雨の降る度に床下に溜まる水、壁1枚では筒抜けの隣りの音を気にしながらのストレスフルな生活に疲れが目立ち、家族内、隣人間の人間関係の悩みを語る頻度も増している。なかでも、高齢者の心身問題はいっそう深刻である。狭い空間のなかでの不活発症候群を始め持病の悪化が懸念される。3度目の冬を迎えるに当たり、災害関連死を防ぐ積極的な手立てが急がれる。客観的に見ても復興のテンポの遅さは気になることだが、当事者にとっての最大の問題は見通しのない状態が何時までも続くことである。
 そうした中、福島第一原発の汚染水漏れに心痛める大多数の国民の思いをよそに、「汚染水は完全にコントロールできています」と平然と言い切った安倍首相の態度は許せない。白い防護服に身を固めて視察するパフォーマンスに騙されてはならないと思う。国際社会の場で、白を黒と言い切ったそのことは、五輪誘致のためのその場凌ぎの発言というよりも、平和や憲法を揺るがし国防軍創設や秘密保護法など、戦時体制に向かって進む姿勢の一端と見るべきではないだろうか。「あの発言はおかしい!」と言い続けなければならない。そして、平和の祭典の主催国としての矜持と国際的な信頼のためにも、平和の尊さを声高に主張し続けなければならないと思う日々である。


 

2013年9月8日日曜日

最近思うこと
            宮本和郎 日本画家
        みやもとかずろう

自然を描く 
 恐るべきことに日本の国はいま、生きるために文化・芸術を必要としない、人を危めることを厭わない人間造りが急速に押し進められています。
 私も係わっている上野・都美術館での平和美術展が無事終わりました。異常気象の連続でしたが年配の方や小中学生などを含めて、入場者は昨年の第60回記念展に比べて約千人増(1.25倍)の賑わいとなりました。不安の多い世の中だからこそ人びとは文化・芸術を求めている、平和を求めている、平和美術展の必要性と意義を理解していることの現れであると痛感させられました。豊かな心と人間性を育むための芸術の果たす役割は一段と大きなものとなる。そのことは平和な社会へと連なってゆく。
 ヨーロッパの具象絵画は一般に人物、風景、静物画と分類されて発展してきましたが、日本画(東洋画)には西洋のものとは異なる表現様式に花鳥画と呼ぶ分野があります。おしなべて生物は、生まれ、生きて、子孫を残し、死んでゆく。植物のさまざまに輝いて生きる瞬間を花と呼び、それらに群がる小動物たちの姿を鳥と呼んで人間が一体化を図ろうとする作画姿勢です。それは特に日本人の中に永く培われてきた自然観であり、自然愛の形だと思います。
 自然界は弱肉強食の食物連鎖と共存、共生、住み分けとのバランスで成り立っている、とダーウィンは説き明かしました。地球上の一生物である人間の求めてきた豊かさとは何だったのだろう。地球上の全てを我が物とみなして弱肉強食を追い求め、人間同士の殺し合い(戦争)までして自然を破壊し、バランスを崩してきました。 
人間は云うにおよばず、この地球上のすべての「いのち」を大切にしよう‥‥‥。私はそんなことを思いつつ、花を中心とした自然を描き、平和美術展にも出品してきました。

2013年7月25日木曜日

   創作折り紙の楽しみ                 
     ピースフル・オリガミスト
  折り紙は、江戸時代に庶民の間で手遊びとして広まったそうです。千羽鶴などのアイディアも、その頃大きく花開いたとききます。そしていまや、オリガミ(ORIGAMI)は世界共通語になっているほどです。
  折り紙は、もちろん本を見ながら作品を折るのも楽しいのですが、それに飽き足りなくなってくると、自分で創作したくなってきたりします。そうして子どものころからはや20年くらいは創作の道に進んでいます。私の創作折り紙は「経験と勘」に頼っています。伝承作品、誰かの創作した作品の技法を真似て折って「経験」することによって、だんだん「こう折ればあんな形になってくる・・・」という「勘」がはたらいてきます。設計折り紙という高度な数学的アプローチによる精密な折り紙作家もおおぜいいらっしゃいますが、私にはそういうことができないので、「経験と勘」に行き着くわけです。
私の創作のモットーは、「好きな何かをモチーフにすること」と「何かピースフルなメッセージを込めること」です。例えば、大好きな野球をモチーフにする(選手やマスコットキャラクター)、昔よくやっていた釣りにちなんで魚を折ってみる。あるいは、平和への祈りを込めて「はと」や「ピースマーク」を   折ってみたりする――そうやって創作活動をしています。
近頃は、その日見たものをいきなり折りたくなり、絵の具や色鉛筆ならぬ折り紙で「スケッチ」をしています。写真は、平和のシンボルである「折り丹頂鶴」です。もちろん、私の創作、いわば「折りジナル」です。


 田邉順一 写真家
  どこで暮らせばいい? 認知症



このところ、気にかかっているのは急増している認知症のことだ。2012年には認知症高齢者は462万人、更にその予備軍が400万人だという。認知症の人たちと出会った1970年代から80年代は、社会資本はほとんど皆無に等しく、家庭での介護が無理になると精神病院か老人病院に入れるしかなく、そこで目にしたのは手足をベッドに縛られ薬漬けにされ、人としての尊厳を奪われた老人の姿だった。
30年が経ち、医療や福祉面ではそれなりに対応しつつあるが、社会的入院は増えている。2011年には精神科病院に入っている認知症高齢者は53,000人、5年前の2倍だ。徘徊や暴れる人たちには先ず抗精神病薬が使われるようだが、その量や内容の実態は不明。先進諸国では使用の可否が問われ、今や薬から人の対応へと移っている。徘徊や暴力などの行動には理由があり、優しく受容することで多くは解消するということが分かってきたからだ。
昨年の6月、遅ればせながらこの国もこれまでの「認知症は病院か施設で」という方針
から「尊厳を保ち、住み慣れた地域で」に転換すると宣言した。
ところが、逆行するような「精神保健福祉法改正案」がこの6月の国会を通過。緩和された医療保護入院制度により、来年4月からはこれまで以上に簡単に精神病院に入院させられるようになった。入院患者の減少に危機感をもった日本精神科病院協会からの強い働きかけがあったらしい。だが、宣言した国家戦略が如何に実効ある形で、迅速かつ着実に進むかをしっかり見ていかねばと思っている。
折も折、6月に私の古くからの友人が精神病院に緊急入院。認知症と診断されて8年、一人で介護をしてきた奥さんの疲労がピークに達し、相談したかかりつけ医の紹介だった。  
入院当日、自宅で朝食を摂り、着いた病院の玄関からは歩いて入った彼が、その日から食事を拒み、二本の足で立つこともできなくなった。
膝痛に苦しむ76歳の奥さんは自宅に連れ帰るべく準備をしているが、今の社会資本でどこまで支えられるか・・・。


2013年6月6日木曜日

最近思うこと
 橋下徹氏の真意、
   これは「緋文字」か
 作家 小中陽太郎 

橋下徹日本維新の会共同代表による「慰安婦発言」は、肝心の橋下代表が、様々に居直り、果ては新聞を誤報だとまで言い出す始末だ。
 発言を整理すると、513日の大阪市役所での最初の記者会見は、奇しくも「革新懇」からエッセイ第1回の依頼のあった日である。それから今日まで15日間ウオッチしてきたが、原稿の締め切りだ。これまでの橋下市長の手口は、爆弾発言をしては言い抜けるばかりで頭も尻尾もない。
橋下市長の最初の発言と弁解の中心は「銃弾の飛び交う下、慰安婦制度が必要なのは誰だって分かる」(513日発端)としたあとで、「私自身が必要と考えると誤報された」(27日、日本外国特派員協会)ということにあるだろう。
 しかし素直に読めば誰だって分かることは、それなら「戦争のもとでは必要だ、と当時の人はおもったが、しかしそれは私の考えではない」言ったのならともかく、いまわざわざ当時の人が頼んでもいないし、そういう遺書が出てきたわけでもないのに、ことあらためて、「戦争のもとでは必要だった」という真意はなんだろう。それは「戦争には、兵士も弾薬も、そして慰安婦も必要だった」というのだろう。そしてそこから一直線に沖縄の司令官に風俗業を活用せよ」と助言したとは、「いま沖縄の米兵は戦争状態にある」と考えていることを示している。
最後に根本的に、橋下市長の発言の最大の問題点は、戦争中であれ、占領下であれ、性のはけ口として必要とされ、強要された女性の屈辱への思いが皆無であることである。

 外国特派員協会では、米軍に風俗業の活用を助言したことを謝罪したそうだが、謝罪すべきは風俗業にはたらく女性、広げれば業者に対してである。後世、占領統治下の占領軍立ち入り許可店に アプルーブドを示すAという文字が貼られていた。まるでホーソーンの小説「緋文字」のように。ここで働いた女性がこの陰には行政の指導があったと損害賠償をおこしてきたら、橋下市長の発言は立派な公的証拠とはなるのではなかろうか。

2013年5月31日金曜日

東京革新懇結成時からの
世話人
佐野洋さんを悼む
高岡岑郷(東京革新懇代表世話人)
 
  推理小説界の重鎮で、日本推理作家協会理事長も務めた佐野洋(さの・よう、本名:丸山一郎〈まるやま・いちろう〉)さんが4月27日夜、肺炎のため川崎市内の病院で死去しました。八十四歳でした。
 1981年・東京革新懇の結成時から世話人を務め、15周年、20周年の記念美術展のバザーでは、新刊文庫本を数点・50冊以上も提供されて財政活動の協力をいただきました。全作品を読破し大フアンを自認する私は、その折りに自宅へ伺って歓談の機会を得、気さくな人柄にも触れることができました。マスコミ九条の会よびかけ人にもなられていましたが、昨年、連載掲載誌でアルツハイマー病であることを告白され、年末から入退院を繰り返されていました。東京革新懇結成からの先人がまた逝ってしまわれました。時の刻みを止めるわけにはいかないのですね。
 佐野洋さんは、東京大学文学部在学中に詩人の大岡信さん、作家の日野啓三さん(故人)らと同人雑誌「現代文学」を創刊。卒業後は読売新聞記者の傍ら推理小説を執筆、「銅婚式」で作家デビュー。1959年に退社。「一本の鉛」など社会推理小説の書き手として注目されました。短編小説の名手として作品は一千点を超え、1997年に日本ミステリー文学大賞を受賞。月刊誌「小説推理」で39年間連載のミステリー評論「推理日記」で2009年に菊池寛賞を受けました。また、警察による盗聴事件(1986年発覚)の被害を受けた緒方靖夫日本共産党国際部長(当時)の裁判を支援し、この事件をもとに小説「卑劣な耳」を執筆。布川事件の冤罪被害者の支援にも取り組まれました。
【佐野洋さんの略歴】1928522日生まれ。東京市大森出身。旧制一高に首席合格、東京大学文学部心理学科卒業。1953年、読売新聞社に入社。当初兼業作家だったため、ペンネームは「社の用」にかけて付けたとのこと。1959年に退社。黒岩重吾に「血や汗を流していない小説」と批判され、「むしろ賛辞と受け止めたい」と返したほど知的遊戯としてのミステリを貫きました。
作家同士の交友に積極的で、多岐川恭、河野典生、星新一、水上勉、結城昌治らとともに若手作家の親睦団体「他殺クラブ」を結成、のち笹沢左保、大藪春彦、都筑道夫、生島治郎、戸川昌子らも加えて70年ごろまで活動しました。
1973年より「小説推理」誌に「推理日記」を連載。ベテランの実作者による推理小説時評として、さまざまな反響や議論も呼びつつ執筆は39年に及びました。
実弟の丸山昇は中国文学者で東京大学名誉教授。兄弟ともに日本共産党の支持者として知られます。
佐野洋さんは、全国革新懇、東京革新懇の結成時から世話人を受けて頂きました。「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人も務めていました。
 2013427日、肺炎のため死去、84歳でした。


2013年5月22日水曜日

全国革新懇第33回総会開く  5月18日
「国民が主人公」の政治へ向かう
 新しい局面に一歩進む・・・激突の情勢
下写真は、「報告と提案」を行う三上満全国・東京代表世話人。その右から大黒作治、小林武、志位和夫、谷内口浩二、畑田重夫、牧野富夫代表世話人ら。
220人が参加し、充実した議論に!
「今年の2月以降28の革新懇が36回にわたり憲法学習会をした」と発言する東京革新懇の今井文夫事務局長
西武線各駅でのピースアクション(憲法宣伝・署名。現在92駅中30駅で行った)や世話人会の定例化など、うまずたゆまず行ってきていると話す西武革新懇青木静子代表

2013年4月30日火曜日

「ガチトークはじめました。
      青年革新懇」
   死刑制度を考える第2回討論会 4月20日
 「ガチトークをはじめました。青年革新懇」は420日、「死刑制度を考える」討論会を開催。弁護士の緒方蘭先生を招き、12名が参加。
 刑罰の根拠を学び、死刑の成り立ちを考えて「なぜ国によって刑罰が違うのか」「死刑反対も賛成も犯罪のない社会を目指していることがわかった」などの感想が寄せられました。

2013年4月4日木曜日

 青年革新懇全国交流会
 全国から170人が参加、
 熱気あふれるつどいに(3/2324広島)
東京から参加した3人の青年の感想

首都でのたたかい広げたい
岩崎明日香さん(民青都委員長)
323日・24日に広島で開催された「青年革新懇全国交流会」に参加しました。雨宮処凛さんを迎えたトークや各県の活動報告では、青年が生きづらさをかかえさせられている社会のなかで、311後、声をあげ、政治を変えようとする行動の広がりや可能性を実感しました。   
また、全体会後は、「原発被害と対策」の分科会に参加し、福島の青年の「親から『あなたたち子どもだけでも避難しなさい』と言われた」「あらゆることに線引きがされている」などの痛切な実態や思いをきくとともに、広島で被爆2世として被爆者運動にとりくんでこられた方のお話をきくことができました。各県から参加した青年が「地元の原発を再稼働させないために頑張る」と改めて決意表明する姿を目の当たりにして、原発ゼロの日本を全国の連帯でつくるために首都でのたたかいを広げ、国政革新を実現したいと強く思いました。
今後の発展につなげたい 
大山円佳さん(「本気(ガチ)トークはじめました。青年革新懇」)
青年革新懇全国大会は、初日は雨宮さんの講演と夜の交流会、二日目は分散会でした。講演には全国から170名、交流会には90名を超す仲間が全国から集まり熱気あふれる大会となりました。参加者は民医連・民商・労組専従の割合が多く、まだ広がりを作りきれていない状況の反映と思いました。それとともに、これらの分野は社会の矛盾が端的に表れるところでもあり広く市民に溶け込んでいく余地があります。どのように市民に溶け込むか、市民が求めていることは革新懇が目指している社会と同じだというメッセージをいかに正確に伝えるかと思います。また、今の若年層は、自分の能力を高めたい、それを発揮できる社会を求めています。志を同じくするあらゆる市民・団体と手をとり新しい社会をつくる運動の中で革新懇が担う役割を考えながら今後の発展につなげていきたいと思いました。
考えさせられた青年交流会
山田幸輝さん(「本気(ガチ)トークはじめました。青年革新懇」)
青年革新懇の全国大会は、急な暖気の到来に一気に桜が開花した都心部とは違い、桜のつぼみは未だ硬く閉じられとても肌寒い中で開催されました。各地各方面から集まった若者の話を聞き、強く感じたのは「我々はこのままでよいのか?」という率直な疑問でした。どこの民主団体でも永遠のテーゼに近い問題ではありますが、青年革新懇はまだ産まれたばかりで、それが非常に顕著だと思います。他のサークルにはない青年革新懇の独自性を打ち出しつつ大衆を惹きつけ深耕できるイベントが必要だと強く感じました。今まで「ガチトーク」という形でそれを計ってきましたが、今回、初心に返り、考えさせられました。
冬来たりなば春遠からじ。咲かない桜はありません。
「本気(ガチ)トークはじめました。青年革新懇」がガチトーク
3月21日、鈴木猛国民救援会事務局長をお呼びして「死刑制度を考える」を開催。10人が参加して真剣に議論しました。