2025年5月23日金曜日

中村美智子さんを偲ぶ

 中村美智子さんを偲ぶ


中村美智子さん ありがとうございました

    上 伸子(元新婦人都本部会長)


 

 中村美智子さんと出会ってから40年あまりになります。それから、わけあって、中村さんに新日本婦人の会東京都本部の専従にならないかとお誘いをうけ、2年後に、中村さんのあとを受け、私は、都本部の会長になりました。右も左もわからないなか、要求実現のための運動のあり方、東京の女性団体、民主団体とのおつきあい、組織論、ほんとうにたくさんのことを教えていただきました。

中村さんの最大のお仕事は、「明るい革新都政をつくる会」の中心メンバーとして、美濃部革新都政をうみだし、発展させたたことでした。革新政党と市民が統一戦線を組み、大きな政治の転換を成し遂げました。その後、政党の組み合わせはかわっても、市民と野党の統一なくして、政治の転換も、市民の要求実現もない。この信念はかわらず、中村さんの生き方のまんなかに貫かれていました。都本部会長を退かれた後も、革新懇の会議に熱心に参加され、それがかなわなくなってからも、東京の運動の動向をたえず気にかけ、現場の最新のニュースをお伝えするとほんとうに喜んでおられました。中村さん、お疲れさまでした。そして、中村さんの願っておられた政治の革新に力をつくします。 

【中村美智子さんの経歴】

1930年5月20日 埼玉県秩父に生まれる。 

1970年  新日本婦人の会東京都本部事務局長(79年まで)

      当時の会長は関高子さん 事務局長になる前から専従として活動。

      「明るい革新都政をつくる会」「母親大会連絡会」などに参加。 

1979年   新日本婦人の会東京都本部会長(94年まで)

      会長として、乳幼児医療費無料化の運動、子どもを退廃文化からまもる、公害をなくす、日本の農業を守る産直、など多彩な運動の先頭にたつ。また、要求別小組で仲間の輪をひろげ、新婦人の組織拡大にも尽力。

1985年 東京革新懇世話人

2003年 東京革新懇代表世話人。憲法を守り政治革新の共同をすすめる東京革新懇の総会で

    開会挨拶、閉会挨拶を行う

2009年 東京革新懇顧問

2025年3月20日 享年94歳

 

※革新懇の世話人などの経歴は私のところには、記録がないので付け加えてください。

※生年と出身地は、息子さんの中村元さんに確かめた方がいいと思います。なぜ、秩父を強調するかというと、秩父事件、困民党で蜂起した方の末裔だと聞いたことがあるからです。

 

宮本和郎さんを偲ぶ


 宮本和郎さんを偲ぶ

  丁弘之(府中革新懇事務局長)

1月19日帰らぬ人となった宮本和郎さんは、日本美術会、美術家平和会議の中心となってアンデパンダン展や平和美術展開催に大きな役割を担ってこられました。

併せて地元府中でも1985年の府中革新懇結成の結成以来大変お世話になってきました。年表を紐解ますと1988年「政治革新と革新統一を語る講演会」で「自然の心を描いて」と題し講演。90年には連続講座「自然と人と社会と」の第三回で「四季を彩る花と心―自然とふれあう中で」と題し講演されています。2016年に革新懇が発行しました小冊子「府中市の自由民権運動の歴史に学ぶ」の表紙にカットを寄せていただいています。

 毎年地元で開催している「個展」も昨年の1月の府中美術館、東郷時、4月の多磨霊園「ゆめたま」が最後となりました。「個展」のご案内で「地球上に生きるすべての生命の大切さと尊厳を描いて50年余」と述べていますが宮本さんの作品が私たちを引き付ける原点がここにあるように思えます。

宮本和郎さんありがとうございました。

宮本和郎さんの経歴

1936年 日野市生まれ

 日本画家の宮本十九一さんの三男として誕生

 東京芸大日本画科卒業。

 美術家平和会議代表委員

 日本美術会受任委員

 日本美術家連盟会員

 九条美術呼びかけ人

 

2025年3月24日月曜日

小中陽太郎さんを偲ぶ

小中陽太郎さんを偲ぶ 

角倉 洋子(東京革新懇世話人・人間講座運営委員)

小中さんが神のみもとに召されました。90歳でした。2024年12月6日の葬送礼拝式でのお孫さんの献唱レクエイムに心が癒されました。小中さんは、「人間講座」が休憩中であることを憂いて、ご友人の作家・下重暁子さんと再開へシンポジウムを企画して下さり、1990年5月22日、山田洋次監督の「寅さんから見た人間社会」へ結びついたのです。第25夜(2017/2/25)トークセッションには、小中さん自身参画。林田光弘さん(元SEALDs/ノーベル平和賞授賞式参列)と“眼差しに差別はないだろうか?”“人間関係が浅くなってはいないか?”など、平和への想いを人間の課題と重ねて縦横に語って下さり、感動の講座でした。小中さん心からありがとうございました。天国から見守って下さい。 

経歴 

1934年、神戸市生まれ。

 NHH入局  ディレクターとして活躍 

べ平連、小田実さんと共にベトナム反戦活動 

マスコミ9条の会呼びかけ人  平和運動に貢献 

日本ペンクラブの理事・専務理事を歴任。 

東京革新懇世話人。1980年全国革新懇遊説に精力的に参加。革新懇結成に尽力。

 小説、ルポルタージュ、エッセイを多数執筆。 

2013年に『飛べよ源内』で第一回野村胡堂賞を受賞。

  

2023年9月1日金曜日

 都丸哲也さんを偲ぶ


10年後輩として 西東京市革新懇 森 武郎 

 

都丸哲也さんがなくなった。

都丸さんは戦争中、南方方面軍に編入され、北ボルネオに派遣、現地で敗戦を迎えられた。幸いにご無事で翌年、帰国。 

戦後、社会党に入党。旧保谷町議、市議を経て、1977年、革新統一の保谷市長に就任された。416年に及んだ都丸さんの市政運営の基本理念は、憲法を市政に貫く、住民自治を根つかせる。そして 非核・平和の思想を普及するの2点だった。そこから、全国初の特養ホームの個室化などのきめ細かな福祉・医療施策や、市民参加を貫いた公民館活動や、憲法擁護・非核都市宣言の採択など、数多くの先進的な施策が生まれた。 

退任後は全国、東京、三多摩、西東京地域の各段階を通じて、革新懇、原水協、9条の会などの世話人、代表世話人として幅広く活動されてきた。なかでも熱心に取り組まれてきたのが市民の憲法学習であった。杉原泰雄先生を講師として、ひばりが丘教会の講堂をお借りして、2014年から2年にわたって実施した西東京・憲法学ぶ会もその一つ。憲法の危機を救うのは主権者たる国民・市民がその地位にあることを理解し自覚する以外にない。市民の憲法学習が都丸さんの信念だった。「戦前」が取りざたされる今こそ、遺志を受け継がなければという思いを新たにしている。 

都丸さんご苦労さまでした。安らかにお休みください。 


都丸哲也さんの略歴

19214月生まれ。群馬県渋川市出身

学習院大学文学部卒業

1977年 革新統一の保谷市長 1993年まで4

19977月以後  東京革新懇常任世話人  東京革新懇代表世話人

         全国革新懇世話人

         東京原水協代表理事

200810月    九条の会東京連絡会代表

2013年から東京革新懇顧問

2023813日逝去102


2022年12月13日火曜日

畑田重夫さんを偲ぶ

 畑田重夫さんを偲ぶ

              野本春吉(大田革新懇事務局長) 

 戦前・戦中・戦後を生きた、尊敬された畑田重夫先生が十一月二十二に、九九歳で永眠されました。

二年間の軍隊生活、短い高級官僚、国立大学で教職、ラジオニュースの解説者(藤原弘達氏)、二度の東京都知事選挙の候補者など体験しました。  

畑田先生は、一九六〇年全国各地での安保条約に反対する学習会の講師活動から、安保、憲法、沖縄、反核・平和、統一戦線運動と二〇二一年秋まで講師活動を続け、学習活動に一生をささげた人です。

お話は、政治情勢を深く分析、誰でもわかるようにやさしくわかりやすく、たたかう展望を示し、参加者を引き付け感動を与えるものでした。民青大田主催の「七夕の集い」で講演、畑田先生の話を聞いた青年達、四八名がその日、一日で民青同盟に加盟しました。私は、その日の事を今でもよく覚えています。

畑田先生は、学者として、一人の人間として、どんな人にも、分け隔てなく接して、誠実に向き合う人でした。そんな先生の魅力にひかれました。

「私は、畑田先生の話を聞いて変わった」の声は今日でもよく耳にします。多くの人たちに大きな影響を与えた教育者でありました。

先生は、たたかう仲間に支えられ、最高の人生を送ることができたと思います。

長い間、ご指導ありがとうございました。安らかにお眠りください。

 戦前・戦中・戦後を生きた、尊敬された畑田重夫先生が十一月二十二に、九九歳で永眠されました。

二年間の軍隊生活、短い高級官僚、国立大学で教職、ラジオニュースの解説者(藤原弘達氏)、二度の東京都知事選挙の候補者など体験しました。  

畑田先生は、一九六〇年全国各地での安保条約に反対する学習会の講師活動から、安保、憲法、沖縄、反核・平和、統一戦線運動と二〇二一年秋まで講師活動を続け、学習活動に一生をささげた人です。

お話は、政治情勢を深く分析、誰でもわかるようにやさしくわかりやすく、たたかう展望を示し、参加者を引き付け感動を与えるものでした。民青大田主催の「七夕の集い」で講演、畑田先生の話を聞いた青年達、四八名がその日、一日で民青同盟に加盟しました。私は、その日の事を今でもよく覚えています。

畑田先生は、学者として、一人の人間として、どんな人にも、分け隔てなく接して、誠実に向き合う人でした。そんな先生の魅力にひかれました。

「私は、畑田先生の話を聞いて変わった」の声は今日でもよく耳にします。多くの人たちに大きな影響を与えた教育者でありました。

先生は、たたかう仲間に支えられ、最高の人生を送ることができたと思います。

長い間、ご指導ありがとうございました。安らかにお眠りください。


畑田重夫さん(東京革新懇顧問)の経歴

全国革新懇・日本平和委員会・革新都政をつくる会顧問

1923年京都府生まれ

東京帝国大学在学中に学徒出陣

戦後、旧内務省を経て、名古屋大学助教授を務めた後、労働者教育協会会長や勤通大学長など学習運動に尽力

原水禁世界大会実行委員会議長団や日本平和委員会代表理事など長年にわたり反核平和運動の発展に尽力

1987年と1991年に東京都知事選に立候補

「わが憲法70年」「どうみる新しい内外情勢」など著書多数

2022年12月6日火曜日

長谷川邦夫さんを偲ぶ

 長谷川邦夫さんを偲ぶ

               平田 誓(東京平和委員会常任理事)  


8月11日、東京原水協代表理事、東京平和委員会代表理事の長谷川邦夫さんが亡くなりました。

 長谷川邦夫さんは、広島の親戚が被爆により小頭症で生まれた事などから豊島区で核兵器廃絶の運動を練馬の亡き兄と共に長年にわたり中心的に活動してきました。平和行進では毎年子連れで参加されていたそうです。このような経験を基に東京原水協、東京平和委員会で新任の事務局などを指導し、大きな役割を担ってきました。

 私たちは、長谷川邦夫さんの「核兵器廃絶・戦争をふたたび繰り返さない」との思いを引継ぎ、核兵器禁止条約の批准を要求し世界の平和の推進役として日本政府が変わるよう運動を進めていきます。 長谷川邦夫さん、私たちの前途を見守っていてください。

2022年5月31日火曜日

 早乙女勝元さん安らかに 


柴田桂馬「東京都平和祈念館(仮称)建設をすすめる会」世話人

 5月10日、早乙女勝元さんが逝去されました。

早乙女さんは少年時代、東京足立区で空襲を体験されたとのことですが、1970年6月下旬の頃、家永三郎先生と話合う機会があって、その際、教科書に東京空襲にかかわる記述をして欲しいとの進言をしたところ、先生が「資料らしいものがほとんどない」と言われたことがきっかけになって、東京大空襲を記録する会を発足させ、「東京大空襲・戦災誌」発行の取り組みを進めたということです。

1979年の都知事選挙に当たっては、12人の各界の著名な文化人とともに候補者に「空襲・戦災資料館」建設の公開要請書を送り、この選挙で都知事となった鈴木俊一氏から肯定的な回答を得るなどの成果を上げました。

こうした活動が「戦争の惨禍を繰り返すな」の世論をひろげ、1990年7月には東京都が平和の日条例を公布・施行、「平和記念館」建設への具体的な一歩を踏み出し、1995年3月10日の東京都平和の日記念式典で「東京都民平和アピール」を採択するなどという画期的な時期をつくりだす礎石となってきました。

ところがかつて日本の政府と軍部がすすめた侵略戦争を肯定・美化する一部の都議の策動で平和記念館建設が1998年以降「凍結」状態とさればかりか、石原都政になってから、東京都は早乙女さんに、「東京大空襲・戦災誌」の編集・発行の過程で全国から寄せられた貴重な資料について、保管料の支払いを要求してくるという、全く理不尽極まりない暴挙にでてきました。

このとき早乙女さんは、「こうした石原都政を許せない。私は私財を投入してでも、資料を寄せてくれた人びとの思いを活かすために民立・民営の資料館を建設します」と怒りに煮えくりかえる胸の内を私に話してくれました。

しかしながら早乙女さんの思いは都立の平和記念館の建設であり、その意味で「道半ば」という状況であったわけです。

私は、この思いを受け継いでいっそう「戦争の惨禍を再び繰り返さないことを誓う」東京都平和記念館建設にむけて都民の皆さんとともに歩をすすめていきます。

早乙女さん、ぜひ私たちの前途を見守っていてください。

早乙女 勝元さん(東京革新懇世話人)略歴

1932326東京都生まれ

194539深夜から310未明にかけて東京大空襲を体験

1952に「下町の故郷」で直木賞候補

1970に「東京空襲を記録する会」を結成

1971 日本ジャーナリスト会議奨励賞(「東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録」)

1975 菊池寛賞・日本ジャーナリスト会議奨励賞(東京空襲を記録する会「東京大空襲・戦災誌」)

1992 15日本アカデミー賞特別賞(『戦争と青春』で企画賞)

2002東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長就任。2019退任、名誉館長

著書多数

2022510日逝去90歳。