2022年12月13日火曜日

畑田重夫さんを偲ぶ

 畑田重夫さんを偲ぶ

              野本春吉(大田革新懇事務局長) 

 戦前・戦中・戦後を生きた、尊敬された畑田重夫先生が十一月二十二に、九九歳で永眠されました。

二年間の軍隊生活、短い高級官僚、国立大学で教職、ラジオニュースの解説者(藤原弘達氏)、二度の東京都知事選挙の候補者など体験しました。  

畑田先生は、一九六〇年全国各地での安保条約に反対する学習会の講師活動から、安保、憲法、沖縄、反核・平和、統一戦線運動と二〇二一年秋まで講師活動を続け、学習活動に一生をささげた人です。

お話は、政治情勢を深く分析、誰でもわかるようにやさしくわかりやすく、たたかう展望を示し、参加者を引き付け感動を与えるものでした。民青大田主催の「七夕の集い」で講演、畑田先生の話を聞いた青年達、四八名がその日、一日で民青同盟に加盟しました。私は、その日の事を今でもよく覚えています。

畑田先生は、学者として、一人の人間として、どんな人にも、分け隔てなく接して、誠実に向き合う人でした。そんな先生の魅力にひかれました。

「私は、畑田先生の話を聞いて変わった」の声は今日でもよく耳にします。多くの人たちに大きな影響を与えた教育者でありました。

先生は、たたかう仲間に支えられ、最高の人生を送ることができたと思います。

長い間、ご指導ありがとうございました。安らかにお眠りください。

 戦前・戦中・戦後を生きた、尊敬された畑田重夫先生が十一月二十二に、九九歳で永眠されました。

二年間の軍隊生活、短い高級官僚、国立大学で教職、ラジオニュースの解説者(藤原弘達氏)、二度の東京都知事選挙の候補者など体験しました。  

畑田先生は、一九六〇年全国各地での安保条約に反対する学習会の講師活動から、安保、憲法、沖縄、反核・平和、統一戦線運動と二〇二一年秋まで講師活動を続け、学習活動に一生をささげた人です。

お話は、政治情勢を深く分析、誰でもわかるようにやさしくわかりやすく、たたかう展望を示し、参加者を引き付け感動を与えるものでした。民青大田主催の「七夕の集い」で講演、畑田先生の話を聞いた青年達、四八名がその日、一日で民青同盟に加盟しました。私は、その日の事を今でもよく覚えています。

畑田先生は、学者として、一人の人間として、どんな人にも、分け隔てなく接して、誠実に向き合う人でした。そんな先生の魅力にひかれました。

「私は、畑田先生の話を聞いて変わった」の声は今日でもよく耳にします。多くの人たちに大きな影響を与えた教育者でありました。

先生は、たたかう仲間に支えられ、最高の人生を送ることができたと思います。

長い間、ご指導ありがとうございました。安らかにお眠りください。


畑田重夫さん(東京革新懇顧問)の経歴

全国革新懇・日本平和委員会・革新都政をつくる会顧問

1923年京都府生まれ

東京帝国大学在学中に学徒出陣

戦後、旧内務省を経て、名古屋大学助教授を務めた後、労働者教育協会会長や勤通大学長など学習運動に尽力

原水禁世界大会実行委員会議長団や日本平和委員会代表理事など長年にわたり反核平和運動の発展に尽力

1987年と1991年に東京都知事選に立候補

「わが憲法70年」「どうみる新しい内外情勢」など著書多数

2022年12月6日火曜日

長谷川邦夫さんを偲ぶ

 長谷川邦夫さんを偲ぶ

               平田 誓(東京平和委員会常任理事)  


8月11日、東京原水協代表理事、東京平和委員会代表理事の長谷川邦夫さんが亡くなりました。

 長谷川邦夫さんは、広島の親戚が被爆により小頭症で生まれた事などから豊島区で核兵器廃絶の運動を練馬の亡き兄と共に長年にわたり中心的に活動してきました。平和行進では毎年子連れで参加されていたそうです。このような経験を基に東京原水協、東京平和委員会で新任の事務局などを指導し、大きな役割を担ってきました。

 私たちは、長谷川邦夫さんの「核兵器廃絶・戦争をふたたび繰り返さない」との思いを引継ぎ、核兵器禁止条約の批准を要求し世界の平和の推進役として日本政府が変わるよう運動を進めていきます。 長谷川邦夫さん、私たちの前途を見守っていてください。

2022年5月31日火曜日

 早乙女勝元さん安らかに 


柴田桂馬「東京都平和祈念館(仮称)建設をすすめる会」世話人

 5月10日、早乙女勝元さんが逝去されました。

早乙女さんは少年時代、東京足立区で空襲を体験されたとのことですが、1970年6月下旬の頃、家永三郎先生と話合う機会があって、その際、教科書に東京空襲にかかわる記述をして欲しいとの進言をしたところ、先生が「資料らしいものがほとんどない」と言われたことがきっかけになって、東京大空襲を記録する会を発足させ、「東京大空襲・戦災誌」発行の取り組みを進めたということです。

1979年の都知事選挙に当たっては、12人の各界の著名な文化人とともに候補者に「空襲・戦災資料館」建設の公開要請書を送り、この選挙で都知事となった鈴木俊一氏から肯定的な回答を得るなどの成果を上げました。

こうした活動が「戦争の惨禍を繰り返すな」の世論をひろげ、1990年7月には東京都が平和の日条例を公布・施行、「平和記念館」建設への具体的な一歩を踏み出し、1995年3月10日の東京都平和の日記念式典で「東京都民平和アピール」を採択するなどという画期的な時期をつくりだす礎石となってきました。

ところがかつて日本の政府と軍部がすすめた侵略戦争を肯定・美化する一部の都議の策動で平和記念館建設が1998年以降「凍結」状態とさればかりか、石原都政になってから、東京都は早乙女さんに、「東京大空襲・戦災誌」の編集・発行の過程で全国から寄せられた貴重な資料について、保管料の支払いを要求してくるという、全く理不尽極まりない暴挙にでてきました。

このとき早乙女さんは、「こうした石原都政を許せない。私は私財を投入してでも、資料を寄せてくれた人びとの思いを活かすために民立・民営の資料館を建設します」と怒りに煮えくりかえる胸の内を私に話してくれました。

しかしながら早乙女さんの思いは都立の平和記念館の建設であり、その意味で「道半ば」という状況であったわけです。

私は、この思いを受け継いでいっそう「戦争の惨禍を再び繰り返さないことを誓う」東京都平和記念館建設にむけて都民の皆さんとともに歩をすすめていきます。

早乙女さん、ぜひ私たちの前途を見守っていてください。

早乙女 勝元さん(東京革新懇世話人)略歴

1932326東京都生まれ

194539深夜から310未明にかけて東京大空襲を体験

1952に「下町の故郷」で直木賞候補

1970に「東京空襲を記録する会」を結成

1971 日本ジャーナリスト会議奨励賞(「東京大空襲-昭和二〇年三月十日の記録」)

1975 菊池寛賞・日本ジャーナリスト会議奨励賞(東京空襲を記録する会「東京大空襲・戦災誌」)

1992 15日本アカデミー賞特別賞(『戦争と青春』で企画賞)

2002東京都江東区にオープンした東京大空襲・戦災資料センター館長就任。2019退任、名誉館長

著書多数

2022510日逝去90歳。