同世代の皆さん、ともに青春時代を伝える活動をしませんか?
八王子懇話会の事務局長になりました
弁護士 飯田美弥子
「革新懇」か「九条の会」か
古希の表彰も済んだ斎藤展夫団員から、「八王子革新懇」か「八王子九条の会」かどちらかを引き継いでもらいたい、と話を受けた。どちらにしよう?
私は、革新懇を選ぶことにした。
若い団員は、どのぐらい「革新懇」を知っているだろ うか?
「九条の会」が、二〇〇四年六月、時の政権党である自民党による改憲の動きに抗して、結成されたのに比べ、「革新懇」(正式名称「平和・民主・革新の日本を目指す全国の会」)は、一九八一年結成である。
結成の契機は、前年八〇年一月一〇日の「社公連合政権構想」(一般に、「社公合意」と略称される。)にある。これにより、社会党は、それまでの社共共闘・革新統一の路線から、共産党排除へ転換したのだった。
少し私の青春の思い出に付き合ってもらわなければ ならない。
かつて、社会党が、自衛隊は違憲だが合法的な存在だという「違憲合法論」というものを提唱したことがあった。石橋正嗣委員長の「現実路線」の結実であった。八六年六月、社会党は総選挙敗北。石橋氏は引責辞任。
次に社会党党首となったのは、土井たか子氏だった。憲政史上初の女性党首であった。彼女は、従来から、護憲派として知られ、女性差別撤廃の旗頭でもあった。
八九年総選挙で、社会党は、改選議席の倍以上を獲得。そのとき、彼女は、眼前にひしめき合う取材陣に対し「山が動いた」と確信に満ちた口調で応えた。それは、自立した女性の一つの姿として、喝采を浴びた。「おたかさん」ブームが起こった。
社・公・連合の会・民社党の四党連合は、このときの国会に、消費税廃止法案を提出する。自民党が多数を占める衆議院で廃案となったが、一定の「革新的な」動きがあったことは事実だった。
しかし、先の選挙のときから、おたかさんブームに乗じた、社会党の女性候補擁立策に、私は違和感を覚えていた。女性候補なら当選し易いとして「マドンナ候補」と呼ばれた。それは、女性差別の裏返しではないのか、と感じていたのだ。
案の定、候補者選定をめぐって、他党との調整や党内の人事で揉め事が多発。おたかさんの組織活動の弱さが指摘された。九一年統一地方選挙で、社会党は敗北。おたかさんが引責辞任した。
九三年総選挙で、社会党そのものは敗北したものの、細川内閣に与党として参加した。おたかさんは、女性初の衆議院議長となった。
九四年、社会党は、自民党・新党さきがけと連立政権を組んだが、それでも、翌九五年参議院通常選挙でまたも敗北。社民党と改名し、おたかさんが、再び党首に擁立されたのだった。
政治家としてのおたかさんを思い出すと、やっぱり、学者であって、生活の実感が乏しかったのではないかな、と思われてならない。ブームはあったけれど、党として、筋を通すことができなかった。「マドンナ」という扱いの限界だったような気もする。
さて、平成元年生まれの我が息子にとっては、社民党がかつて社会党という名前であったことさえ「歴史」である。おたかさんも、「日本の憲政史上最初の女性党首は誰?」という歴史クイズなのかもしれない。
社公合意は遥か昔、社共共闘なんて時代があったの? の世界である。
二大政党制がいいと言われた。自民党がいやで、民主党に投票した。山は動いたはずだった。しかし、今や、民主党は、自民党より悪くなった。自民党から、「いつまでマニフェストに拘っているのか」と非難されて、民主党は、党内分裂を回避するのに汲汲としている。
どこに投票すりゃいいんだ。どこに投票したって同じだ。誰も、本当に国民のことなんか考えてないんだ。いっそ、維新の会がよかろうか。
息子のニヒリズムが悲しい。
息子よ。母もかつて(高校生のころ)、新自由クラブという新しい政党に期待したことがあったのよ。党首・河野洋平氏は、後に、自民党にお戻りになりましたっけ。目新しさだけで選んではだめだよ。
確かに、「政治革新」の道筋は、社会党が存在した頃より、今の方が見えにくいように思う。
でも、政治革新を願ってずっと活動を続けてきた人達はいたのだ。その経験(成功も失敗も)を生かすべきではないのか。
何ができるかわからないが、私の世代が、「平和・民主・革新の日本をめざす」活動を、若い世代に引き継ぐ役目を果たさなければならない、と思うに至ったのである。
同世代の皆さん、ともに青春時代を伝える活動をしませんか?
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