「写真撮ったら命はない!」
JCJ特別賞受賞
嬉野京子さんに インタビュー
日本ジャーナリスト会議は、嬉野京子さんの50年間の沖縄取材に対して2016年特別賞を授与しました。嬉野さんは東京革新懇世話人です。
私の原点8月7日
今回の受賞は戦争に向かう社会にさせないための受賞と思う。沖縄をはじめ日本全国の人に支えられながらきた。
1945年8月7日が「私の原点」だ。4月の蒲田大空襲で九州の祖母のところに疎開。その後、小さな部品工場を松代で再開せよとの軍の指示で、母が迎えに来て、兄や姉5人で8月5日夕刻汽車に乗った。私は4歳。翌朝広島の西20キロの廿日市で停まる。新型爆弾が落とされここから先へは進めないとのこと。再開の見通しのない列車で過ごし、翌7日に徒歩で広島市を突破。倒れている人が「助けてくれ」としがみついてくる。ぐちゃぐちゃの死体の中を歩いた。この体験が原点だ。
2部制の青空学校。教科書の墨塗、食糧難、高度成長、戦後のすべてを体験してきた。
沖縄復帰求めて行進
1963年の「赤旗」、4月28日に北緯27度線上で沖縄と本土から船を出して海上大会で交流、その一行が東京に向けて行進を開始したとの記事。新幹線が開通するときに何で徒歩かと強い関心を持った。取材したいと大井川まで行き、結局15日間一緒に歩いた。
第2回の行進は64年、東京を4月28日出発し8月15日の海上大会まで歩く行進。太平洋と日本海の2コース。日本海コースにカメラマン・記録で参加したが、団長が急遽不参加で、沖縄代表と私が通し行進者。当時、沖縄からは運動経験者にはビザが出ず、私が団長を務め、行進受け入れの各地も初めてづくしのハードな110日間だった。各自治体に沖縄返還の意見書の要請、各地の学習会のチューター等々、私は鍛えあげられた。
1枚の写真の衝撃
宗教・教育・マスコミ関係者にはビザがおりなかった。私は65年祖国復帰協大行進に参加するため、グラフィックデザイナーで申請しビザがおりた。鹿児島から那覇港へ。税関で「カメラはだめ」「命いくらあっても足りない」と止められた。必死に抗弁し「カメラを出すときは米兵がいないことを確認するんだよ」と通してくれた。最南端の摩文仁の丘を4月8日に出発し20日間行進。ベトナム戦争の最中で米兵が溢れていた。
4月20日、宜野座村で子どもが米軍車両に轢かれて即死、現場に駆けつけた。行進団に「写真撮ったら命はない」「行進団が弾圧される」と言われたが、「沖縄の実情を伝えなければ分かってもらえない」と必至に訴え、1人が米兵の注意をそらしている間に、行進団員の肩越しに撮影。これが日本に世界に沖縄の実情の一端を伝え反響を呼んだ。
米軍が指名手配、山狩り
67年に写真集を出すために伊江島に行き、阿波根昌鴻さんを訪ね、米軍の土地取り上げを取材したときには、米軍に指名手配され山狩りも行われるなど怖い思いもした。
72年沖縄は復帰したが我々の求める復帰ではなかった。
和光小学校が「戦争の本質を学ぶ」として沖縄に行くことになり、相談があり、6年生に何を見せ聞かせるか提案し軌道にのるまで同行、その後は節目の年に参加している。
1995年の少女暴行事件の時も飛んでいった。
アレン・ネルソンがニューヨークの自宅で海兵隊員の少女レイプ事件の報道を聞き、詳細不明で96年に沖縄に来て、岩波ブックレットも出すことになった。各地で講演、東京革新懇「人間講座」でも取組んでもらった。そのうち、彼は我が家を拠点に日本全国での公演活動を展開した。
沖縄が問うもの
今年20歳の女性が殺されたが、アレンが言いたかったことはこのことだ。海兵隊員は人間性を奪われ殺人マシーンにされ、いつ本領がむき出しになるか分からない。犯人は沖縄の女性と結婚し子どもまでいたが、海兵隊で教わった通りの殺し方をしている。
辺野古、高江、伊江島は強固な基地にされようとしている。オスプレイを横田に持ってこようとしている。日本中が沖縄化されようとしている。対岸の火事ではなく、自分たちのところがそうなったらどうするか問われる。
瀬長亀次郎は、祖国復帰協の中で、統一のため大変な労力を使い我慢・妥協しながらやっていた。統一は大変だが諦めずにやっていれば神様はチャンスをくれる。そのときにやるべきことをやる。一人一人が肩書きがあろうが無かろうがおかしいと思ったら声を上げていく。私は、知らず知らずのうちにいろんなことをやって今日まできた。