2015年9月2日水曜日

  三上満先生を偲んで
       
乾 友行 
  全国革新懇事務室長 
三上満先生のご逝去を知らされたとき、ことしの全国総会を前にして三上先生とお話したことを思い出していました。
先生は、病状がおもわしくなく、「こんな体調で代表世話人を続けていいだろうか」と言われました。先生にがんばっていただきたいというお願いをすると、“やがて死んでいくのは自然の法則”と言いつつ、「あまり動き回れないが、できることはしたい。最後まで革新を貫いてまっとうしたい」というお話をされたのでした。こうしたやりとりがあっただけに、全国総会の閉会あいさつでの戦争法案阻止をよびかける気迫の訴えに深い感動を覚えずにいられませんでした。
先生は、文字通り、教育、労働運動、統一戦線運動の分野でめざましい活躍をされ、2004年から全国革新懇の代表世話人を努められました。代表世話人会でいつも教育の問題について発言され、政治革新への熱い思いを語っておられました。その点では、筋金入りでありながら、新しい出来事への興味が盛んで、柔軟な発想をお持ちでした。
三上先生は、代表世話人として、各地の革新懇講演会に行かれ、憲法や教育、宮沢賢治について語り、感銘を与えてきました。青年への思いも強く、大阪での青年革新懇交流会で、次のように「若い人へのメッセージ」を贈りました。

「革新的に生きるということは未来をひらく、その困難を背負って生きることだ。それは困難であるが楽しく、やりがいがり、素晴らしい人生だ」

最近思うこと

    革新懇の旗高く

小中陽太郎 
   作家
  東京革新懇世話人 

 沖縄戦敗北の記念日直前の、6月20日、「軽井沢9条の会」の10周年記念の講演会にうかがった。地道に活動してきた9条の会(代表土屋ちよ、なんと私と東京世田谷の同級生)と軽井沢追分教会の稲垣壬午牧師や南教会の信徒たちで文字通り革新統一の集会だった。軽井沢追分教会は、稲垣牧師一家が3代にわたり定着、日本の教会でも珍しいパイプオルガンを備えている。
 思い起こすと、革新懇は発足のころ、よく旅をした。いまはなき松浦総三さん(評論家)や共産党代議士吉岡吉典さんなどと角倉洋子事務局員と気仙沼を尋ねた。
 当時革新統一という言葉は、労働組合、政党など諸団体との民主的交流を志していたようにおもう。
 それはいまでも維持されていようが、さらに多様な市民の交流の場になっていて親しみやすい。研究会などのほかに、既成のマスコミの二極化のなかで、(マスコミにどう立ち向かうかが、軽井沢での話の主な内容だったが)、この革新懇ニュースなど、手作りの紙の情報がおおきな手段になっている。そういう意味で軽井沢ひとつとっても地域や職場と市民をつなぐ運動になってほしい、とおもう。
 このあと高校時代運動部の合宿で夏と言うと汗を流した千が滝を尋ねた。木下恵介の「カルメン故郷に帰る」をロケした千が滝分校は廃校になっていたが、星野温泉で作家の高平哲郎がまっていてくれて、信州そばにしたづつみをうった。もちろん蕎麦焼酎もわすれずに。帰京後、安保法案急を告げ、わたしも国会前にデモに行ったが、そこにはいつも各地の革新懇の旗が9条と並んではためいていた。
 最近鶴見俊輔さんが逝去されたが、わたしは信州をたずねたあとのこととて、赤旗日曜版(八月九日)の弔辞で思わず上田出身の真田幸村を詠んだ俊輔さんの詩を引用した。
「幸村は六文銭のはたをたてて」
これからも安倍退陣、安保法案廃案、憲法9条堅持の旗を高く掲げてほしい。